ご存知織田信長の有力家臣丹羽長秀。
天下統一を織田信長と共に駆け、
多くの武将に恐れられた丹羽長秀の家紋はどのようなものだったのでしょうか。
今回は丹羽長秀の家紋についてお伝えします。
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丹羽家の先祖について
詳細は定かではないですが、丹羽家は桓武天皇の皇子、良岑安世の末裔であると言われています。
尾張(現、愛知県)斯波氏に古くから仕え、三河丹羽氏から分家してきたと言われています。
1535年、丹羽長秀は斯波氏家臣である丹羽長政の次男として産まれました。
丹羽長秀が産まれた頃は、すでに斯波氏の権力は失われており、名目上の支配者となっていました。
斯波氏に変わって実力をつけてきたのが織田家で、織田信長の父・織田信秀が実力を着実に伸ばしていました。
歴史上、丹羽長秀の文献が少ないため詳細は不明ですが、
丹羽長秀は元服すると織田信長に仕えていたとされます。
歳が近かった織田信長と丹羽長秀は長い付き合いで、
信長が本能寺の変で亡くなるまで天下統一へ共に歩んでいきます。
丹羽家の家紋について
丹羽秀長の家紋は「丹羽直違紋」。
「直違紋」の一種で、「筋違紋」とも書きます。
二本の直線を交差させたX字の紋で、「違い棒」、「二本箸打ち違い」とも言われています。
二線のものを「直違紋」、四線で出来ているものを「二本直違紋」と言います。
丹羽秀長の家紋は、通常の直違より角度がついているのが特徴です。
このことから家紋として使用する場合、
「家や城を守る」という意味が込められていると言われています。
この家紋は古くからあり、南北朝の頃より藤原氏秀郷流の波多野氏と河内氏、松田氏が用いています。
江戸時代にはあまり使用されておらず、丹羽家以外にはあまり見られない家紋であったそうです。
丹羽直違紋の由来
丹羽長秀の家紋、丹羽直違紋は通常の直違より角度がついているのがオリジナルです。
この家紋には2つの由来が残されています。
初陣の最中、丹羽長秀が敵の首を切り落とし、血まみれの刀を布でぬぐいました。
さらにもう一人首を切り落とし、同じ布で拭ったところ、布にバツ状に血が付いたことが由来と言われます。
丹羽長秀の馬印は、竹の枝に金の短尺をひらひらと16枚下げたもので、「えづる竹に金の短尺」と言われるものでした。
合戦後、16枚短尺が落ちてなくなっていたのですが、そのうち2枚だけ十字状に残っていたといわれます。
この形が印象的で、家紋にしたという説です。
直違紋にまつわる言い伝え
そもそも直違紋は丹羽秀長が用いる前から、ある言い伝えがあります。
それが以下2つです。
このことから「死の世界」と「生の世界」を区切る印として用いられました。
呪術性が宿っているとも言われます。
この矢が簡略化した模様が、直違紋となったとも言われています。
その他、丹羽家が使用した家紋
丹羽家は丹羽直違紋をメインとして使用していましたが、その他家紋も使用していました。
・檜扇
・三盛木瓜
・三葉笹
などです。
「檜扇」は扇に神霊が宿るとされ、浦上氏、十河氏、本山氏、佐々木氏などが用いていました。
「三盛木瓜」は五大紋の一つである木瓜紋に分類される家紋で、越前の朝倉氏が用いていました。
「三葉笹」は、「竹」が根強く、繁殖力も強く、風雪寒暖にも強いと言われています。
「竹」を採用した武将では竹中家、伊達家などが知られています。
きょうのまとめ
丹羽長秀の家紋について見てきましたが、いかがでしたでしょうか
簡単にまとめると
① 丹羽長秀の家紋は「丹羽直違紋」と呼ばれている
② 「丹羽直違紋」には2つの由来がある
③ 「直違紋」の本来の意味は2つの言い伝えがある
④ 「檜扇」「三盛木瓜 」「三葉笹」なども使用
と言えるのではないでしょうか。
丹羽長秀については、他にも色々な記事があります。
よろしかったらご覧になってみて下さい。
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