丹羽長秀とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

織田信長の家臣として柴田勝家と共に「織田家の双璧」と呼ばれた

丹羽長秀にわながひで

本能寺の変の後は豊臣秀吉側につき、柴田勝家を滅ぼします。

織田信長と天下統一を目指し続けた丹羽長秀とはどんな人物だったのでしょうか。

 

丹羽長秀はどんな人?

プロフィール
丹羽長秀

出典:Wikipedia

  • 出身地:尾張国(現在の愛知県)
  • 生年月日:1535年
  • 死亡年月日:1585年(享年49歳)
  • 織田信長の重臣。安土城築城の総奉行。元家臣の豊臣秀吉に利用されてしまう!

 

丹羽長秀 年表

年表
西暦(年号)

1535年(1歳)尾張国にて、斯波氏の家臣丹羽長政の子として生まれる。

1551年(16歳)元服。織田信長に仕える。

1563年(28歳)小牧山城築城の奉行を務める。

1570年(36歳)織田信長と共に浅井・朝倉軍と戦う(姉川の戦)。

1571年(37歳)近江国佐和山5万石の領主となり、佐和山城主となる。

1575年(41歳)長篠の戦などの功績により、若狭国一国も任され、後瀬山城主となる。

1576年(42歳)安土城築城の総奉行となる。

1582年(48歳)本能寺の変後、豊臣秀吉側につき、近江国大溝城を居城にする。

1583年(49歳)賤ヶ岳の戦を経て、近江国、越前国、加賀国など加増、合計123万石の太守とし、北ノ庄城を居城とする。

1585年(51歳)豊臣秀吉に利用されたことを知る。持病が悪化し自害。

 

丹羽長秀の生涯

織田信長の重臣、柴田勝家と並んで「織田家の双璧」とまで言われた丹羽長秀。

その生涯をみていきましょう。

織田信長と歳は近く、天下統一に突きすすむ

丹羽長秀は元服と同時に織田信長に仕えています。

織田信長とは歳も近く、織田信長とは良い関係でした。

織田彦五郎攻めの際には、16歳にて初陣を飾っています。

桶狭間の合戦以降、織田信長の重臣となり、姉川の戦い後には佐和山城5万石を拝領し戦国大名となります。

その後、織田信長の城、安土城の築城担当とし、築城奉行を務めています。

このように本能寺の変が起こるまでは織田信長の政治面、民事面を支える重臣として力を発揮しました。

丹羽長秀、無念の死

本能寺の変で織田信長が亡くなると、早急に明智光秀を討ったのが、丹羽長秀の元家臣、豊臣秀吉でした。

その後、信長の後継者を決める「清州会議」では、豊臣秀吉の推薦する信長長男の子である三法師を推します。

つまり柴田勝家が推薦する信長の三男、信孝を拒否し、豊臣秀吉側につきました。

豊臣秀吉側についた丹羽長秀は、秀吉と共に柴田勝家を滅ぼします。

この功績から越前、加賀の一部を与えられ123万石の大名に出世します。

しかし、その後、豊臣秀吉が織田家をないがしろにし、秀吉自身の天下取りを進める事態に失望します。

丹羽長秀は秀吉の言いつけに従わず、反抗的な態度もとるようになりました。

その中、丹羽長秀は病に侵されます。

丹羽長秀は秀吉への怨みを募らせ、割腹自殺しました。

その際、自ら腹の中の病巣を手で取り出し秀吉に送りつけたとも言われています。

 

丹羽長秀にまつわるエピソード

異名「米の五郎左」の由来は?

織田信長は丹羽長秀のことを「米の五郎左」と呼んでいたと言われています。

米は日本人の食べ物で中心的な役割を持っている必要不可欠なものです。

この意味を用いて、織田信長にとっては丹羽長秀は必要不可欠な主要な人物だ、という意味で名付けたようです。

古い文献では丹羽長秀は温厚で寛大な人物であったとされています。

つまり、織田信長を裏方でしっかりと支えている中心的な重要人物だ、というような意味合いなのかもしれません。

 

安土城を作った責任者

1579年、織田信長が天下を取るための象徴として築城したのが安土城

3年後には消失してしまい、詳細は分からない謎多き城だとも言われています。

琵琶湖のほとりに築城され、琵琶湖の水運も活用できる便利な土地。

越前、加賀の脅威や上杉謙信の守りとしても重要拠点でした。

天下を取るためを意味した大型の天守や、地下1階地上6階建ての高さが約32メートル、当時としては驚くべき建築技術でした。

イエズス会の宣教師は

ヨーロッパの最も壮大な城と肩を並べるものである

とも書いていたそうです。

この豪華絢爛「安土城」の築城責任者として任命されたのが丹羽長秀でした。

1576年、織田信長より安土城の「総普請奉行」を任命されました。

総普請奉行: お城の石垣普請や縄張り、地取などの土木関係の諸業務や上水の管理を司る役割

丹羽長秀は政治面や裏方の能力にも優れており、その能力を買われての抜擢だったようです。

この築城能力、ノウハウは息子の丹羽長重にも継承、長重は棚倉城、白河小峰城を築城するに至っています。

この築城能力が最終的には江戸時代の徳川家からも尊重され、3代目丹羽光重の出世にもつながっています。

 

きょうのまとめ

丹羽長秀についていかがでしたでしょうか。

簡単にまとめると

① 元服と同時に織田信長に仕えた

② 織田信長から「米の五郎左」と呼ばれ、不可欠な存在

③ 「安土城」の総普請奉行

④ 築城技術は混迷する子孫を助ける能力として継承された

と言えるのではないでしょうか。

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よろしければどうぞ御覧ください。

 

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