上杉家に生涯をかけて忠誠を誓い、
主君・上杉景勝の右腕として家臣随一の働きをした「義将」
直江兼続。
兼続は内政においては越後の水田開発を進めて、米が新潟県の名産となる基礎を作り、
合戦においては上杉景勝に従い、様々な戦いに参戦します。
東の関ヶ原と言われる慶長出羽合戦では、最上軍・伊達軍の連合軍と大激戦を繰り広げました。
戦国随一の名将として名高い兼続は後世において様々な名言を残しています。
今回は現在まで伝わる直江兼続の名言について詳しく解説していきます。
天の時は地の理に如かず
天の時は地の理に如かず。地の理は人の和に如かず。
古代中国の儒学者、孟子の言葉を兼続が引用したものです。
地形の有利は民衆の団結には叶わない。
正しき道を行く者は、多くの助けを得ることができ、天もその者に従う。
間違った道を行く者は助けを得られず、自らの親族さえも敵となることがある。
正しき道を行き、天下を味方につけ、親族にすら見放された者を責める。
そのような行いをしていれば戦いには必ず勝つ。』
兼続は主家である上杉家が石高を大幅に減らされ出羽国(山形県)米沢に国替えとなります。
しかしその後も、民のために農業と産業を奨励して富を生み出し、町の整備や鉱山を掘り進めるなどして、米沢藩250年の基礎を作りました。
逆境に立たされても屈することなく、民のために正しき政治を行った兼続だからこそ、この孟子の言葉を自らの教訓としたのでしょう。
国の成り立つは
国の成り立つは、民の成り立つとする。
国において根本となるものは民です。
民衆の生活が成り立たなければ国として成立せず、
戦国の世であれば、すぐに攻め込まれて滅びてしまうでしょう。』
武田信玄が、かつて「人は石垣、人は城」という名言を残したように、
内政手腕に秀でた兼続も民を第一に考え、民のための政治を行っていたからこそ、このような言葉を残したのです。
華の都に背を向けて
江戸時代の中ごろに著された戦国武将の逸話集である「常山紀談」には
兼続が詠んだと伝わっている詩が後半の部分のみ書かれています。
春雁吾に似て 吾雁に似たり 洛陽 城裏 花に背いて帰る
主君である上杉景勝に従い、京や江戸などの都へ行くことが何度もあったであろう兼続は、春を待たずに北へと飛び立って行く雁の姿を、自らに重ね合わせてこの詩を詠みました。
文化人としても一流の教養を身に付けていた兼続は若い頃から漢文を学び、漢詩や連歌をよく詠んでいたと伝えられています。
伊達政宗に痛烈な一言を浴びせる兼続
徳川幕府の世となってから江戸城に赴く機会があった兼続は、城の廊下を通っていると、「独眼竜」伊達政宗とすれ違いました。
戦場で名を馳せた者同士、城で顔を合わせれば会釈をすることは当たり前であり、言葉を二言、三言交わしてからすれ違うのが常識です。
しかし、兼続は政宗とすれ違っても、言葉を交わすどころか、会釈もせずに通り過ぎていきました。
これに怒った政宗は兼続を呼び止め、無礼であると諫めます。
兼続はそれに対して「気付きませんでした。」と言った後に
戦場では後ろ姿しか見かけなかったものですから。
と政宗に言い返します。
兼続は政宗が戦場で負けて逃げる後ろ姿しか見たことがなかったので、顔を合わせても気付かなかったと言うのです。
政宗は腹を立ててその場を後にしました。
兼続は武人として血気盛んな一面も持ち合わせており、慶長出羽合戦で対立した政宗を、兼続は敵視していました。
徳川の世となって戦が終わっても主君の敵を憎むその心は変わらなかったのでしょう。
きょうのまとめ
いかがでしたでしょうか。
いずれの名言も民のために国を思い、主君のために自らを顧みない兼続の人となりが良く表れています。
戦国の世に生まれて60年の人生を全うした兼続の魅力は、これらの名言からも感じ取ることができるのではないでしょうか。
直江兼続については他にも様々な記事を書いています。
興味がある方は是非ご覧になって下さい。
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