直江兼続とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

上杉景勝に従って、政治と軍事両面で多大な貢献をした名将

直江兼続

「愛」の字が飾られた兜を身に付けて采配を振るい、戦場を駆け巡ったという逸話も有名で、

大河ドラマの主役に取り上げられるなど非常に人気のある武将の一人です。

直江兼続はいったいどんな人物だったのでしょうか?

年表や逸話を交えて詳しく解説していきます。

どうぞ最後までお読みください。

 

直江兼続はどんな人?

プロフィール
直江兼続

出典:Wikipedia

  • 出身地:越後国上田庄の坂戸城下(新潟県南魚沼市、異説あり)
  • 生年月日:永禄3年(1560年)
  • 死亡年月日:元和5年12月19日(1620年1月23日)
  • 上杉家に忠節を誓い、生涯を懸けて尽くした「義将」

 

直江兼続 年表

年表
西暦(年齢)

1560年(0歳)越後国上田庄に生まれる。(幼名、与六)

1580年(20歳)上杉景勝の側近としての活動が史料に見えるようになる。

1581年(21歳)直江家を継いで直江兼続と名乗り、与板城主になる。

1584年(24歳)内政・外交のほぼ全ての取次を一人で任されるようになる。

1586年(26歳)従五位下の官位を叙せられる。

1588年(28歳)豊臣秀吉から豊臣姓を与えられる。

1598年(38歳)出羽国(山形県)米沢に6万石の領地を与えられて大名となる。

1600年(40歳)最上家・伊達家の連合軍と庄内地方を巡って激しい戦いを繰り広げる。(慶長出羽合戦)

1608年(48歳)名前を重光に改名し、直江重光と名乗る。

1620年(60歳)江戸鱗屋敷で病死する。

 

上杉家を軍事・内政両面で支えた名宰相

兼続の前半生

歴史上の史料に直江兼続の名が現れるのは、上杉景勝に側近として仕えるようになった天正8年(1580年)の頃であり、

それまで兼続がどのような活動をしていたかについては諸説あり、はっきりと分かっていません。

一説には、幼い頃から後の主君となる上杉景勝と共に勉学に励み、

少年となった兼続は景勝の側近として仕え、主従を超えた友情を互いに持ち続けたと言われています。

上杉家中で随一の実力者に成長する

青年となった兼続は景勝の下で側近として仕え続け、上杉家の政治と外交の中枢として重きをなし、家臣団の中で一番の権力を有するまでに成長します、

やがて豊臣秀吉の政権下で、景勝が会津(福島県)に120万石の所領を与えられて北関東・東北に絶大な権力を持つようになります。

兼続は出羽国米沢に6万石の所領を与えられ、上杉家中の大大名として大きな出世を成し遂げます。

徳川家康との対立

しかし秀吉が亡くなり、徳川家康が台頭してくると、新しい城を築城していた上杉家を家康が尋問したことにより、家康と対立します。

この時、兼続は家康の尋問に対して世に有名な「直江状」を返書として送ったとされています。

この直江状の内容がどのようなものだったのかについては諸説ありますが、

兼続が書いたものの写しが複数残されており、要約すると以下のような内容が書かれていたと言われています。

・我が主君である景勝が内府様(家康)を裏切ろうとしていることなど、訴えた者を調べればすぐに嘘だとわかります。

・謀反をするつもりなどないのに、謀反の意がなければ上洛せよなどと、赤ん坊のようなことを言われては話になりません。

・根拠もない訴えをした者を簡単に信用し、こちらに不平等な扱いをされるならば、例え我ら上杉家が戦を起こして天下を取り、国を盗った悪者と見なされてもそれは仕方のないことでしょう。(家康と戦を起こしても勝てるという隠喩)

この返書を見た家康は激怒して会津征伐を決意し、自ら大軍を率いて会津へと向かいます。

しかし、その後すぐに石田三成が挙兵したため、家康は会津征伐を取り止めて軍を引き上げます。

 

関連記事 >>>> 「直江兼続と石田三成の関係とは?」

 

撤退戦で名を上げる

家康の軍勢が三成を討つため、退却したことを知ると、

兼続は反目し合っていた隣国の最上家を討伐するため、大軍を率いて最上領に侵攻します。

しかし、最上家の本拠である山形城を落とす前に関ヶ原の戦いが終わってしまいます。

結果は家康率いる東軍の大勝利となり、西軍・三成側に味方した上杉家は後ろ盾を失いました。

責任を感じた兼続は自害を考えましたが、盟友・前田慶次に諌められ、生き抜くことを決意します。

会津へと退却を開始した上杉軍とそれを追う最上・伊達軍は激しい戦いを繰り広げ、

上杉軍は兼続の見事な指揮により、会津への撤退に成功し、その見事な戦いぶりは敵方を感嘆させたと伝わっています。

 

関連記事 >>>> 「直江兼続と前田慶次 二人の友情」

 

関ヶ原の合戦後の活躍と晩年

戦後、景勝と兼続は家康に謝罪し、上杉家の存続は許されたものの、

会津120万石 → 米沢30万石へと大幅に減らされてしまいました。

しかし、ここでも兼続の内政手腕が発揮されます。

兼続は米沢の農業を充実させるため、治水事業と水田開発を推進し、その結果、米沢の農政は飛躍的な発展を遂げました。

他にも町の整備や産業の奨励、鉱山開発を進め、兼続は米沢藩が徳川の世で250年続く基礎を作り上げたのです。

その後は豊臣家と徳川家の戦いである大坂の陣にも徳川軍に参戦して、上杉の名に恥じない活躍をします。

そして1620年、上杉家の行く末を案じながら江戸で60年の生涯に幕を下ろしました。

生涯を上杉家のために捧げた名将の死に、主君・景勝は悲しみに打ちひしがれたと伝わっています。

 

関連記事 >>>> 「直江兼続の子孫は現在も存在しているのか?」

 

直江兼続にまつわる逸話

閻魔大王へ使者を出す

あるとき、兼続の配下の一人が召し使いを処断するという事件が起きました。

召し使いの遺族は兼続に「命を取られるほどのことはしていない」と訴えました。

兼続が調べさせると遺族が訴えた通りであったため、兼続は謝罪の意を込めて遺族たちに白銀20枚を送るように指示します。

しかし、遺族たちは「殺された五助を返して欲しい」という要求を繰り返し、説得にも応じなかったため、

兼続は「ならば迎えに行くがよい」と3人の遺族たちの首をはねて、河岸に首を晒し、

この者たちを使者に出すので、死んだ五助を返せ

と閻魔大王へ手紙を記したという逸話が残っています。

敵の大判は汚らわしい

伊達政宗

京の伏見城。大名が立ち並ぶ席の中で、

伊達政宗が自らが持っていた大判を見せびらかしたことがありました。

諸大名が大判を手に取って見ていく中、兼続は何を思ったか大判を扇で受け取り、観察しました。

政宗が

伊達政宗
遠慮せずに手に取って見られては?

というと

直江兼続
このような下品な物を触ることなどしたくないため、扇に乗せているのです。

と言って、大判をそのまま政宗の元へ投げたといいます。

兼続は上杉家と敵対していた伊達政宗をとても嫌っていたようで、

徳川の世となった後も政宗に敵意を向けていたと伝わっています。

 

関連記事 >>>> 「戦国一の義将、直江兼続の名言集」

 

きょうのまとめ

最後までお読みいただきありがとうございました。

直江兼続についていかがでしたでしょうか。

直江兼続とは?

① 生涯を上杉家に捧げた戦国最高の義将

② 内政手腕に優れ、領地を繁栄させた名宰相

③ 後世に語り継がれる見事な名采配を見せた戦上手

④ 敵対する者には正面から立ち向かう豪胆さを持った漢

と言えるのではないでしょうか。

その他の記事についても、直江兼続にまつわる様々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 

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