幕末1867年11月15日。
2人の志士・中岡慎太郎と坂本龍馬の運命の日です。
坂本にとってはその日が人生最後の日、そして中岡にとってはその2日前となりました。
凶行のあった現場は、京都河原町の醤油商・近江屋。
謎の多いこの事件の詳細を知る者は、即死しなかった中岡慎太郎だけでした。
タップでお好きな項目へ:目次
近江屋事件の顛末
凶行のあった事件の日を振り返ってみます。
その時に何が起きたのかは正確には分かっていません。
残されたいくつかの証言に整合性がないなど問題があるのですが、どのような事件だったのかの概要をご紹介します。
客が乱入
その日、土佐藩を脱藩して活動していた坂本龍馬と中岡慎太郎は、その頃拠点としていた醤油商の近江屋の二階で話をしていました。
夜午後九時を回ったあと、龍馬に会いたいと来客がありました。
まず、取次をした坂本の手伝いで元力士の山田藤吉が倒されます。
その物音に坂本が
と叫びました。
すると2人の刺客が坂本と中岡のいた奥の八畳間に乱入し、いきなり一人が龍馬の前頭部を斬りました。
もう一人が中岡の後頭部を斬ります。
坂本・中岡への攻撃
坂本は床の間にあった刀を取ろうとしたところを右の肩から左の背中にかけて斬られます。
立ち上がるところでさらに前頭部を斬られ、中岡の名を呼びながら倒れます。
刀を屏風の後ろに置いていた中岡は、頭の傷を負ったまま、刀を鞘から抜く暇もなく防戦。
そのうち手足を切られ、右手に至っては切断されるほどの重傷を負いました。
さらに臀部に骨に達するほどの傷を負った中岡は、死んだふりをします。
すると「もうよい、もうよい」と叫んで刺客は去って行きました。
助けを求める中岡とその後
切り倒された坂本と中岡は声を掛け合います。
坂本は襲われたことを残念がり、そしてかすかな声で
と言って意識を失います。
中岡は、人を呼ぼうと屋根を伝って外へ出ますが、返事がなく、そのまま屋根にとどまりました。
やがて近江屋主人と、使いから戻ってきた鹿野峰吉が、倒れていた藤吉、坂本、そして屋根の上にいた中岡を発見。
知らせを聞いた陸援隊・谷干城らが駆けつけました。
死
坂本は既に死んでいました。
重傷ながらも意識のあった中岡は、気丈にも土佐藩の人々に襲撃の際の状況を伝えたといいます。
しかし、藤吉は翌日に、そして中岡は2日後の11月17日の夕刻に死亡しました。
11月18日に亡くなった3人の葬儀が行われました。
犯人は誰だ?
凶行の犯人を除いて、事件の詳細を知る者は中岡だけです。
彼の証言は貴重でした。
しかし、急に襲撃され、重傷を負った中岡が証言することが全て正確ではなかった可能性もあります。
結局その実行犯は見つかっていません。
当時は、佐幕派の剣客集団である新選組が一番に疑われていましたが、今日ではその新選組説は否定されています。
記録や証言から見廻組実行説が現在の通説とされています。
1862年の寺田屋事件の際、坂本は2人の伏見奉行所の役人を射殺しており、近江屋事件当時、彼は殺人犯として手配されていました。
そのため、坂本襲撃は見廻組が職務として遂行したというのです。
そのことは、元見廻組の今井信郎が自供していますが、証言の内容が他のメンバーと食い違う部分もあります。
それは、実行に関わった見廻組の生き残りが報復を受けないために、見廻組の中で既に死んだ隊士を実行犯とすることでかばい合ったためと言われています。
自由な立場で尊皇攘夷論者を束ねる活躍をした中岡と坂本
中岡と坂本が暗殺されたのは、おそらくターゲットとされた坂本の襲撃に、中岡が巻き込まれたと考えられています。
2人は最後の時に、何を話しながら過ごしていたのでしょうか。
海運・貿易業を行う亀山社中(のちの海援隊)を作った、商人的な発想をする坂本と、武力倒幕のための武闘派浪士隊・陸援隊の隊長を務めた中岡。
タイプが違うようで、実は2人はとても似ている点がありました。
2人とも土佐藩を脱藩
1862年、坂本龍馬が土佐を脱藩しました。
彼は、長州で久坂玄瑞に面会したあと、久坂の説く草莽崛起論(身分を問わず、一般人が立ち上がって新時代を築くこと)に感じるものがあったのです。
また土佐藩内に薩摩藩の勤皇活動に参加しようとする者、脱藩する者があり、彼らの誘いも脱藩のきっかけになりました。
一方中岡は、土佐藩内で尊皇攘夷活動に対する弾圧が始まったときに、すぐに脱藩しました。
1863年の八月十八日の政変で、長州藩の急進的な尊皇攘夷派が、薩摩・会津などの公武合体派に京を追われた後のことでした。
中岡と坂本の二人は脱藩の時期は違いますが、同じ脱藩者という自由な身で、諸藩の間を走り回り、あらゆる考え方や多くの人々を束ねる役割をしました。
薩長同盟
彼らには、目的のためには昨日までの敵とも手を組むことのできる自由な発想があった点も似ていました。
尊皇攘夷派から見た時の彼らの偉業は、微妙に立場の違った尊攘派の人々をうまく束ねることに成功したことです。
中岡は、長州藩への幕府の弾圧、藩同士の無意味な対立、志士たちへの弾圧を見て、考え方を変化させました。
尊攘派の雄藩連合によって藩が力を合わせて武力倒幕をするという方法に目覚めたのです。
お互いの小さな相違点には目をつぶり、目標のために力を合わせるべきだと考えました。
脱藩藩士をまとめ、薩摩と長州の志士たちを口説き、尊皇攘夷論者である公卿・三条実美や坂本龍馬を巻き込み、1866年には薩長同盟を成功させました。
さらには、土佐藩を本格的に尊皇攘夷へと導き、18678年には薩摩との間に、薩土盟約を締結させたのです。
これらはひとえに中岡慎太郎と坂本龍馬の苦労の結晶でした。
この締結があったからこそ戊辰戦争では薩摩・長州・肥前・土佐が倒幕の主要勢力となり、倒幕後には政界のリーダーとなりました。
明治の夜明けをみることはかないませんでしたが、彼らの努力と行動がそれらの藩出身者のその後の活躍を後押ししたのです。
きょうのまとめ
今回は、中岡慎太郎と坂本龍馬が刺客に襲われた近江屋事件、そして中岡が坂本と協力して幕末尊皇攘夷論者による共同戦線づくりに貢献したことをご紹介しました。
簡単にまとめると
① 坂本龍馬が暗殺された1867年の近江屋事件では、中岡慎太郎は瀕死の重傷を負い、いくつかの重要な証言をしたのち死亡した
② 近江屋事件の実行者は、現在では見廻組によるものだと考えられている
③ お互い土佐藩を脱藩した自由な身の中岡と坂本は、薩長同盟、薩土盟約の締結に尽力した
です。
その他の人物はこちら
江戸時代に活躍した歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【江戸時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
時代別 歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」