旅先の夜空を思い起こさせるような名前、
室生犀星。
どこか寂しそうな、それでいて純粋そうな名前だと思いませんか?
この名前の持ち主、室生犀星とは実際はどんな人物だったのでしょうか。
関連記事 >>>> 「室生犀星の「叙情」があふれるおすすめ作品5選」
タップでお好きな項目へ:目次
室生犀星はどんな人?
- 出身地:石川県金沢市
- 生年月日:1889年8月1日
- 死亡年月日:1962年3月26日(享年74歳/満72歳)
- 実の両親から生後一週間で引き離された生い立ちに影響を受けた純粋かつ叙情的な作品を多く発表した、詩人、小説家
室生犀星 年表
西暦(年齢)
1889年(1歳)小畠弥左衛門吉種と女中ハルとの間の私生児として誕生。その後、室生真乗の内縁の妻・赤井ハツの私生児・照道となる
1895年(7歳)室生家の養子となり室生照道と名乗る
1902年(14歳)金沢市立長町高等小学校中退。このころ俳句の手ほどきを受ける
1906年(18歳)室生犀星を名乗り始める
1910年(22歳)上京。その後帰郷・上京を繰り返す
1913年(25歳)北原白秋に認められ、萩原朔太郎と親交を持つ
1918年(30歳)詩集『愛の詩集』『叙情小曲集』を刊行
1916年(28歳)萩原と共に同人誌『感情』を発行。中央公論に『性に目覚める頃』を掲載
1929年(41歳)初の句集『魚眠洞発句集』刊行
1934年(46歳)『詩よ君とお別れする』を発表し、詩との決別を宣言(実際はその後も詩作する)
1935年(47歳)小説『あにいもうと』で文芸懇話会賞を受賞
1941年(53歳)小説『戦死』で菊池寛賞を受賞
1958年(70歳)小説『杏っ子』で読売文学賞受賞。評論『わが愛する詩人の伝記』で毎日出版文化賞受賞
1959年(71歳)小説『かげろふの日記遺文』野間文芸賞を受賞
1960年(72歳)室生犀星詩人賞を創設
1962年(74歳)肺癌のために虎の門病院で死去
室生犀星の生涯
薄幸な少年・照道
室生犀星は1889年に、加賀藩士・足軽頭だった小畠弥左衛門吉種と女中ハルとの間に私生児として誕生。
生後一週間で、生家近くの雨宝院という寺の住職・室生真乗の内縁の妻である赤井ハツに引き取られました。
彼女の私生児として「照道」の名前で戸籍登録され、7歳の時に、真乗の養子となって、室生照道と名乗ります。
9歳の頃には実父が死去し、実母が家を出て行ったあとそのまま生き別れとなった犀星の生い立ちは、のちの彼の文学に深い影響を与えました。
「夏の日の 匹婦*の腹に 生まれけり」(『犀星発句集』1943年)*いやしい女の意味
この句は、犀星が50歳を過ぎてもそれを引きずっていたことを示しています。
俳句から始まった文学への興味
1902年に金沢市立長町高等小学校を中退した犀星は、金沢地方裁判所の雑用の仕事に就きました。
当時の上司に俳句の手ほどきを受け、1904年10月8日付の『北國新聞』には、彼の初めての投句が掲載されました。
その後、犀星は詩人・小説家となってからも句作を続け、『魚眠洞発句集』など4冊の句集を発行。
犀星は、生涯故郷の金沢の景色を愛しました。
彼が育った寺院・雨宝院は、金沢に流れる犀川の左岸にありましたが、1906年から名乗っている「犀星」という筆名は、犀川の西に生まれ育ったという意味だそうです。
上京。そして作家へ
犀星は、1910年から上京や帰郷を繰り返し、放浪と頽廃の生活の中での詩作を続けました。
23歳の冬に京都へ旅し、鴨川、祇園、西陣などについての感傷的で叙情的な詩を多く生み出しました。
彼の代表作『小景異情』はこの頃の作品。
犀星は叙情詩によってその名を一気に世に知らしめました。
1913年には北原白秋に才能を認められ、白秋主催の詩集『朱欒』に寄稿を始めました。
『朱欒』を通じて詩人・萩原朔太郎とも知り合い、1916年には共に同人誌『感情』を発行しています。
さらに犀星は1918年、詩集『愛の詩集』、『叙情小曲集』を刊行。
大正時代の詩壇において、萩原朔太郎と共に最も有望な詩人と期待されました。
1919年には叙情詩的小説『性に目覚める頃』を発表。
1930年代には小説も多く執筆しています。
1934年に『詩よ君とお別れする』を発表して詩と決別したのですが、実際には、その後も詩作は行っています。
生涯に24冊の詩集を発行し、発表された詩は2000編以上。
小説を書きながらも、詩作は犀星にとって生涯をかけて打ち込み、彼の創作における核となる大切な部分でした。
1935年からは旧・芥川賞選考委員を務め、また小説・評論などで文学賞も多く受賞。
戦後には小説家としての地位を確立し、多くの名作を生みました。
1959年に『かげろふの日記遺文』で野間文芸賞受賞すると、翌年その賞金を元にして、室生犀星詩人賞を創設しています(1967年の第7回で終了)。
1962年、肺がんのために死去。
犀星の家族と交友関係
あたたかい家族
犀星は金沢に生まれ育ったとみ子と、一年間の文通を経て犀川のほとりで結婚を決めました。
文学を愛する聡明のおかげで、犀星は温かい家庭を築き、それを支えに文学活動を続けることができました。
室生犀星の小説『杏っ子』の杏子のモデルです。
犀星没後に本格的な文筆活動を行い、『父室生犀星』など娘の視点で犀星について描いたものや多くのエッセイを執筆。
犀星研究家としても活躍しました。
室生犀星の実兄の長男。
10歳から犀星の生家に暮し、犀星より一つ年上の甥にあたります。
海や山河を愛し、自然や生きものへの深い知識を持つ貞一は、中学時代から俳句や詩に親しみました。
犀星からも影響を受けながら就職後も詩作を続け、地方詩人として活躍。
養家で育った犀星が唯一心を許した血縁で、兄弟のように支え合って生きた人物です。
優しく、濃い交友関係
しかし、1914年の初対面でのお互いの印象は最悪でした。
犀星の大ファンで、彼の詩を諳んじることができるほど憧れていた朔太郎。
犀星を繊細な美少年と勝手に思い込んでおり、初めて対面したときに、
「頑強な小男で、粗野な風貌」
だったとがっかり。
犀星も朔太郎が、
「余りにハイカラな風采であり、人の言うことをそら言のように聞く冷淡な感じ」
だったと書いています。
しかし2人はのちに大親友となり、朔太郎は
「恋人が二人できました。室生照道(犀星)と北原隆吉氏(白秋)です」
と白秋宛の手紙に書いたそうです。
犀星を詩人として認め、引き上げた人物です。
犀星が刊行した詩集に寄せる白秋の熱い言葉を読めば、彼がどれほど高く犀星を評価していたかがよく分かります。
犀星の『交流録』によれば、
「会ひにゆくと喜んでくれる。喜んでくれすぎるので行きにくい。僕もこの人にあふと嬉しい、先輩といふ城壁を僕は飛び越えて会へるからである。」
とあります。
東京・田端には、「田端文士村」と呼ばれる文士や芸術家のコミュニティのような町がありました。
放浪生活後の犀星は1916年から田端で芥川龍之介とともに「文士村」の中核として活躍。
龍之介は自殺前日に、近所の室生犀星を訪ねたのですが、犀星は外出中でした。
のちのちまで犀星は、
と、悔やみました。
室生犀星の墓所
愛した町に眠る犀星の野田山墓地
犀星の娘・室生朝子が1963年に建立しました。
庭を愛した父親のためにツバキを植えるなどした20坪もある墓所に、九重の塔が建っています。
故郷・金沢をこよなく愛した犀星は今も高台から城下町を見守っています。
<野田山墓地:石川県金沢市野田町墓地>
犀星が育った寺・雨宝院
室生犀星が幼少期から養子として育てられた寺です。
境内には遺品や直筆の原稿、犀星が書いた寺宛の手紙など、ゆかりの品々が展示されています。
近くには「室生犀星記念館」もあり、合わせて訪ねれば犀星の世界をより深く理解することができるでしょう。
<雨宝院:石川県金沢市千日町1-3>
きょうのまとめ
今回は、叙情的な詩や小説で活躍した文豪・室生犀星の生涯についてご紹介しました。
室生犀星とは、
① 悲しい生い立ちに影響を受けた叙情的な詩と小説の傑作を多く生み出した、大正・昭和期の文豪
② 多くの作品が文学賞を受賞し、旧・芥川賞選考委員を務め、詩人賞を創設するなど後継の育成にも尽力した作家
③ 少年期のつらい時期に比べ、詩人・作家として成功してからは友人にも恵まれ、温かい家庭を持つことができた人物
でした。