二宮尊徳が説く真の幸福へいたる道”報徳思想”

 

二宮尊徳
こと
二宮金次郎
といえば、
薪(たきぎ)を背負って歩きながら読書しているかわいらしい少年
を思い浮かべる人が多いでしょう。

学校の校庭でよく見かけるあの像です。

しかし、
実際何をやった人なのか、
というのは今の時代あまり知られておりません。

さて、今回は二宮尊徳の説いた報徳思想について説明していきましょう。

 

報徳思想を説いた二宮尊徳の生い立ち

二宮尊徳の生まれはお百姓さんです。

そして、若くしてお父さんやお母さんなどの大事な親族を次々と亡くし、

しかも、自身の土地の田畑が洪水で流されたり、

と大変な災厄を経験してきました。

それでも、「あの像」で見られるような

勉強にもお仕事にも

たゆまぬ熱心さ、

と、

そこでつちかった知恵、

と、

ねばり強さで、

着実に挽回してゆきました。

やがてはその才を藩に買われ、各地に派遣されてそれぞれの暮らしを立て直してゆきます。

その村の数は何と

六百あまり

と伝えられます。

しかも一応付け加えておきますが、彼の活躍した時代にはあの”天保の大飢饉”をはさんでおりますからね。

だれもが苦しい時に頼りたくなる

「立て直し」のプロフェッショナル。

そんな彼がまとめた生き方の極意、

それが

報徳思想です。

 

報徳思想とは?

二宮尊徳は当時日本の道徳の大きなよりどころとなっていた

儒教

仏教

神道

いずれにも独学で通じておりました。

さらに、お百姓であるその自分の生涯と照らし合わせ、

それらを総合した思想体系を独自に練り上げてゆきます。

 

世の成り立ちと真の豊かさ

この世には太極があります。

太極の中に人がいます。

そして、人には我(が)があります。

太極へと積極的に向かう天道という生き方があります。

天道にのみしたがって生きる心、それを道心と呼びます。

道心とは天の理にしたがい、我欲を捨てた生き方であります。

太極へと消極的に向かう人道という生き方があります。

人道にのみしたがって生きる心、それを人心と呼びます。

人心とは我欲にとらわれ、欲するばかりで作ることがありません。

心が人心にとらわれている限り、人は豊かになることができません。

道心にそい、ようやく人は真の豊かさをなしえます。

至誠

儒教でいうところの「徳」や「仁」の概念と同じです。

道心をつくすこと。

それが至誠。

まず、その日、その時、なさねばならぬ徳目です。

勤労

「至誠」の状態でふだんの暮らしを実際に営んでゆくこと。

「至誠」は心。

「勤労」とはその行動。

もちろん、ただ働けばよいというわけではありません。

分度(ぶんど)

本当に「勤労」をつきつめれば、そこに無駄づかいもなくなります。

そういった慎み深い状態を分度といいます。

たんにケチというのを意味するわけではございません。

道をきわめれば、自然と本当にいるものしか必要としなくなるであろう、という意味です。

推譲(すいじょう)

分度してあまったものはほかの人に譲(ゆず)ってあげなさい。

 

報徳思想とたらいの水

二宮尊徳の思想はよく「たらいの水」にたとえられます。

人間は生まれながらに空っぽのたらい。

そこに自然やたくさんの人たちが、

水を豊かにあふれさせてくれました。

この水を他にも分け与えましょう。

自分だけのものにしようとすれば水は逃げてしまいます。

しかし、分け与えられ、そこに本当の意味で感激した者はまたほかへ分け与えようとするでしょう。

そして、自分にまた返ってきます。

きょうのまとめ

いかがだったでしょう。

こうやってえらそうに書いている私自身、目からうろこの思いです。

それにくらべ、私たちをとりまいている「資本主義」「市場原理主義」の社会は”欲望が欲望を生む社会”と呼ばれております。

人間というものの物欲は放置したままではどうもその際限がないように思われます。

それが素晴らしい進歩を生むことは確かですが、一方で真の幸福というものに目をつぶっている、と言えなくはないでしょうか。

私たちは現実というものを直視せねばならない。

なぜなら生命だから。

しかし、本当に幸不幸を感じるのはその心自体だ、という絶対的な現実があるような気がします。

これは二宮尊徳だけでなく、これまで、今、そしてこれからのあまりに多くの偉大な思想家・智者たちの共通に語る課題だという気がします。

① 二宮尊徳は若いころ立て続けに不幸に見舞われた苦労人であり、その中から実践的な独自の道徳を練り上げていった

② 二宮尊徳の説いた報徳思想は物心両面から真の豊かさを説いた

③ 報徳思想のたとえにあがる「たらいの水」の話では、幸福は独り占めするものではなく、ほかにも譲れ、と説いている

歴史を語る上で避けて通れないのがこういった「知」の存在です。

ともすれば埋もれがちなこういった過去の無数の「命」。

それらをひとつひとつよりしっかりとひろいあげ、みなさんへとより的確に伝えてまいりたいと考えております。

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