読んでも、読んでなくても、
紫式部が『源氏物語』の作者であることはみなさんもご承知でしょう。
いくつかのエピソードを通してどんな人物だったのか探ってみましょう。
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紫式部はどんな人?
出典:Wikipedia
- 出身地:未詳
- 生年月日:978年?
- 死亡年月日:1019年?(享年42歳?)
- シャイだけれど一度筆を持てば大胆不敵、壮大なロマンも辛辣な人物批評もお手のもの。世界に名だたる『源氏物語』の著者。
紫式部 年表
西暦(年齢)
978年(1歳)紫式部誕生
990年(13歳)定子が一条天皇の中宮になる。清少納言出仕
999年(22歳)藤原宣孝と結婚。道長の娘彰子も一条天皇の中宮となる
1001年(24歳)夫宣孝死没。「枕草子」成立か。『源氏物語』執筆始まる
1007年(30歳)紫式部、中宮彰子に出仕
1008年(31歳)『源氏物語』ほぼ完成?
1013年(36歳)この年までは確実に宮仕えしている
1014年(37歳)この年まで紫式部の生存は確実
1019年(42歳)このころ紫式部死没?
紫式部の生涯
生没年は未詳。
978年ごろに誕生し、1019年ごろに没したとも言われ諸説ありますが、ここではその生没年を採用します。
名前
本名未詳。
宮仕えの頃は、父親や兄が式部丞(※)だったことから
※式部省(日本の律令制における八省のひとつ)の判官四人の総称
「藤式部」と呼ばれます。
やがて『源氏物語』の最大のヒロイン「紫の上」にちなんで「紫式部」と呼ばれました。
家柄と教養
藤原為時の娘で、藤原冬嗣の流れを汲む藤原北家の名門出身。
ただし、傍流の受領階級(中級貴族)でした。
家系は学才のある人物を多く輩出しており、彼女も父親から漢学・音楽・和歌の教えを受けて才能を発揮しました。
やがて藤原宣孝と結婚し一女をもうけましたが2年ほどのちに夫と死別。
『源氏物語』は、夫の死後書き始められました。
1007年頃に中宮彰子に出仕し、翌年には物語の大部分が完成していました。
彼女の晩年についてはよくわかっていません。
『紫式部日記』
紫式部日記は、式部が中宮彰子に仕えていた頃の日記です。
1008年7月から1010年正月までの
・行事
・作者の心境
を描いたもの。
フィクションである『源氏物語』ではわかりにくい彼女の人物像を知ることができます。
後半は消息文と呼ばれ、
・赤染衛門
・清少納言
などに関する辛口の人物批評も。
華やかな宮廷生活になじめない内気な式部自身を鋭く洞察する文章力が光ります。
宇治十帖の謎
光源氏の死後の話を描いた全54編からなる『源氏物語』の最後の10篇を宇治十帖と呼びます。
その部分の表現方法が光源氏の生きていた頃の表現と雰囲気が違い、紫式部が書いたのではないという説があります。
作者として挙げられるのは「大弐三位」という式部の実の娘。
彼女なら文才も、物語に必要な宮中に関する知識を持っているのも納得。
物語が光源氏から息子・薫へ移行していったように、作者も紫式部から娘へと受け継がれていったのでしょうか。
光源氏のモデル
『源氏物語』が書かれていた当時から、光源氏のモデルだと噂されるプレイボーイの貴公子たちが何人かいました。
中でも筆頭は源融と源高明です。
・嵯峨天皇と醍醐天皇の息子たちで、皇位継承権がない
(光源氏も同様)
・絶世の美男子
(光源氏も絶世の美男子)
・京都の六条に「河原の院」と呼ばれる美しい広大な邸宅を持っている
(光源氏の大邸宅「六条院」を彷彿とさせる)
・高明の母親は更衣という身分の低い帝の妻
(光源氏の母親も更衣)
・敏腕政治家として活躍していたが天皇への謀反を疑われ、地方へ左遷
(光源氏が出世の途中に恋愛関係が原因で須磨地方に左遷されるのに似ている)
他の候補はこの二人と比べると少々根拠が希薄ですが、式部が多くの男性から「いいとこ取り」して理想のキャラクターを作った可能性も。
紫式部の恋
紫式部の恋人疑惑のある人物というのが、才能豊かで両親とも天皇家に関わっているセレブ
藤原公任。
『紫式部日記』によると、宮中の宴で酔った公任が
と冗談で式部に声を掛けたのです。
「若紫」とは『源氏物語』のヒロイン・紫の上のこと。
式部はげんなりして
と公任を無視。
手厳しい!
でも、女房の身分でセレブ貴公子をそんなに邪険にできたのは、やっぱり恋人同士だったから?
さらに、公任は「若紫」といったのではなく「我が紫」つまり「私の紫式部」と呼びかけたという解釈も。
それなら二人の仲は・・・。
また、紫式部にはパトロン兼ボスの藤原道長との愛人関係説も。
貴族の系譜を記録した『尊卑分脈』という本に、紫式部が「道長妾」だとの記録があります。
「妾」とは愛人のこと。この記録の信憑性は100%ではありません。
でも、『紫式部日記』には、
道長からの「あなたはさぞ恋愛経験が豊富でよく口説かれるのでしょうね」という意味深な和歌に、つれない和歌を返した記録もあります。
また、夜訪ねてきた道長に「一晩中戸を叩かれたけど開けなかった」こともあったとか。
これって道長からの一方的な好意?
とはいえ、やはり紫式部は恋愛華やかな平安王朝女性だったんですね。
きょうのまとめ
最後までお読み頂きありがとうございました。
紫式部とは、
① 教養ある家系に生まれた才媛
② 『源氏物語』でその文才と創造力を『紫式部日記』で冷静な洞察力を示した女流作家
③ 厳格な性格でありながらも恋の噂もあった平安女性
その他にも紫式部にまつわる色々な記事を書いています。
よろしければどうぞご覧ください。
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[…] 河原町今出川と河原町丸太町の中間地点ぐらいには、「京都府立医科大学附属病院(以下:府立病院)」などがあり、1つ西の筋の寺町通には紫式部の邸宅跡で知られる「廬山寺」があります。かつては立命館大学のキャンパス(広小路学舎)が存在し、現在も何となくですが学生街を感じさせる雰囲気が残っているエリアです。京都有数の総合病院があるだけに調剤薬局が多いのは当然として、なぜか飲食店も少なくありません。もちろん「京都府立文化芸術会館」といった文化施設もあるため、来場者が食事に利用しているのでしょう。 […]