水野勝成とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

倫魁不羈りんかいふき」という言葉をご存知ですか。

「飼い慣らすことができないほど強い」という意味です。

そう例えられたのが、戦国武将・水野勝成みずのかつなりです。

戦に強く、名君主でもあったと言われる彼は一体どんな人物だったのでしょうか。

 

水野勝成はどんな人?

プロフィール

水野勝成像(賢忠寺所蔵)
出典:Wikipedia

  • 出身地:三河国
  • 生年月日:1564年8月15日
  • 死亡年月日:1651年3月15日(享年88歳)
  • 青年期に放浪し諸国で有名武将の多くに仕えた歴戦の武将。無類の強さで鬼日向と渾名され、のちに名君主となった

 

水野勝成年表

年表

西暦(年齢)

1564年(1歳)水野忠重ただしげの嫡男として誕生

1581年(18歳)初陣である第2次高天神城の戦いで活躍し、織田信長から感状を与えられる

1584年(21歳)小牧・長久手の戦いに徳川方として出陣。
告げ口した父・忠重の部下を斬殺し、勘当されて奉公構となる。以降、各地を放浪

1585年(22歳)豊臣秀吉に仕え、紀州雑賀さいか攻め、四国攻めに出陣。のち秀吉から知行を授かるも逃亡

1587年(24歳)肥後領主・佐々成政に仕え、成政死後に豊前領主・黒田孝高よしたかに仕官。のち、黒田長政に随伴した船旅の途中、備後国鞆の港で逃亡

1588年(25歳)小西行長ゆきなが、加藤清正きよまさ、立花宗茂むねしげらに仕えるが出奔。流浪生活を再開

1595年(32歳)備中成羽なりわ城主・三村親成みむらちかしげの食客となる

1599年(36歳)徳川家康に仕える。家康の仲裁により父・忠重と和解

1600年(37歳)上杉征伐に徳川家康方として出陣。父・忠重が殺害されると、家督を相続して刈谷城城主となる。関ヶ原の戦いで大垣城攻略を担当

1601年(38歳)従五位下水野日向守勝成となる

1614年(51歳)大坂の陣に徳川家康方として出陣。大和郡山6万石を与えられる

1619年(56歳)2代将軍・徳川秀忠から備後10万石を与えられる

1623年(60歳)福山城に本拠として城下を整備する

1638年(75歳)島原の乱の鎮圧に徳川家光方として出陣

1651年(88歳)福山城で死去

 

水野勝成の生涯

武将・水野勝成はその人生で数多くの戦いを経験し、戦功をあげた無類の猛者でした。

誕生から初陣、歴戦での活躍

織田信長

1564年、水野忠重の嫡男として誕生し、初陣は1581年の第二次高天神城の戦いでした。

父親と共に武田勢に対する徳川家康方に加わり、16歳の勝成はいきなり15もの首級をあげる活躍で家康の同盟者・織田信長から感状を与えられています。

1582年、武田勝頼を攻撃した天目山の戦いにも信長方として参加。

同年、信長が討たれた本能寺の変の際、京に滞在していた忠重と勝成父子は、東福寺塔頭の霊源院の助けで都からの脱出に成功しました。

その後、

・同1582年天正壬午てんしょうじんごの乱

・1584年小牧長久手こまきながくての戦い

・同1584年蟹江城合戦かにえじょうかっせん

などで、家康軍の一員として先陣をきるなど活躍。

しかし、自分に関する告げ口が原因で父・忠重の家臣を斬殺したため、忠重が激怒して勘当の上、奉公構ほうこうかまえ(他家への仕官禁止)にされました。

諸国転々の日々

豊臣秀吉

しばらくの間家康によってかくまわれたのち美濃・尾張の縁者を頼り転々とし、さらに京に出ます。

血気盛んだった勝成は怪しげな者たちと交遊し、喧嘩や人の命を奪うほどの騒動も起こしました。

さらにその腕を買われて諸国で数々の武将に仕官しますが長続きしません。

・豊臣秀吉に仕官。1585年の雑賀攻め・四国征伐に加わる。秀吉から700石の知行を授かるが、捨てて逃亡

・佐々成政に仕官するが、のち成政が死亡

・黒田孝高に仕官するが、孝高の息子・黒田長政に随伴した船旅の途中で出奔

・小西行長・加藤清正・立花宗茂に仕官するがいずれも続かず

しかし、勝成はそれぞれの主君の元で多くの武功を挙げています。

その後流浪生活を経て備中国で三村親成の食客として収まった頃には、跡継ぎとなる長男の勝俊かつとしをもうけています。

親子の和解と家康への仕官

豊臣秀吉の死後、徳川家康に仕えた勝成は、1599年には家康の手回しで父親・忠重と15年ぶりに和解。

それ以降、勝成が徳川家を去ることはありませんでした。

1600年関ヶ原の戦い前に、勝成の父親・忠重が石田三成方の加賀井重望かがのいしげもちに殺害されます。

そこで勝成は、三河国刈谷かりや3万石の跡目を継ぎ、以降徳川家康の側近となりました。

10月の関ヶ原の戦いでは、石田三成が出撃したあとの大垣城攻めを担当。

本戦で家康軍が勝利した後に大垣城を開城させました。

そこで勝成の父親の仇である加賀井重望の息子・弥八郎を殺して父の仇を取っています。

関ヶ原の戦い以降、晩年

1601年に勝成は従五位下に叙任され日向守ひゅうがのかみを名乗ります。

彼の戦闘能力の高さを怖れた人々は、勝成を鬼日向おにひゅうが渾名あだなしました。

勝成は大坂の陣でも活躍。

特に1615年の夏の陣では、家康の命令を無視して一軍の将である彼自らが先陣をきる活躍でした。

また、徳川家康の本陣に迫ったあの大坂方の真田幸村さなだゆきむらを壊滅させたのは、水野勝成隊です。

大坂の陣の論功行賞で3万石加増された勝成は、6万石の郡山藩主となり、のち徳川秀忠から福山備後びんご南部の福山10万石を与えられました。

その後の勝成は福山藩政に尽力しています。

1638年、島原の乱が勃発した時には75歳だった勝成ですが、幕府から歴戦の将としての腕を買われ、乱の鎮圧軍に参加。

約6000の兵を率い、嫡子・勝俊、孫・勝貞とともに3代で幕府軍に加わりました。

九州の大名以外で唯一参陣した大名は彼だけだったのです。

勝成は翌年に家督を嫡子・勝俊に譲ります。

悠々自適の生活をしながら息子の治政を助け、やがて剃髪ていはつして宗休と号しました。

1651年福山城内において死没。

88歳でした。

 

水野勝成の最強エピソード

関わる戦のほぼ全てで、目覚ましい戦功を上げた勝成。

いくつか興味深いエピソードをご紹介しましょう。

若武者・勝成の天正壬午の乱での活躍

1582年の天正壬午の乱で、水野勝成は味方の鳥居元忠とりいもとただの抜け駆けに抗議し、「もう指図は受けない」と言い捨てて少ない手勢で敵に突撃。

北条勢を大混乱に陥れました。

勝成たちが獲った首級の数は実に300

道に吊し、敵方の戦意をすっかり喪失させたとか。

当時、勝成はまだ19歳でした。

兜をかぶらずに突撃

1584年の小牧・長久手の戦いでは、「結膜炎による眼痛」を理由に兜を着用しなかった勝成は父に叱責されます。

それを振り切り、鉢巻きのみで出陣した彼は、一番首を取って家康に持参したのです。

縁起の悪い官名を笑い飛ばす

明智光秀

1601年に、勝成は従五位下じゅごいのげに叙任され

「水野日向守勝成」となりました。

織田信長を裏切った明智光秀の官名「日向守」は、武将の多くが避けたものですが、

勝成は笑い飛ばし、喜んで受けたといいます。

剣豪・宮本武蔵を配下に

大坂の陣で勝成はあの剣豪の宮本武蔵を配下に従えています。

武蔵は、勝成の息子・水野勝俊の護衛として働きました。

恐るべき老ガンマン

88歳で亡くなった勝成は、87歳のときに鉄砲を離れた的に命中させ、人々を驚かせています。

恐るべき老将が撃ち抜いた的は現在も茨城県立歴史館に寄託保管されています。

 

名君であり趣味人

武勇の人・水野勝成ですが、実は名君主であり芸事を好む趣味人でもありました。

良将・勝成

江戸初期の日本の藩政の模範を示したのが勝成です。

備後国福山藩主となった勝成は、放浪時代に福山で過ごした経験により地の利にも詳しく、広い人脈があったことを治政に生かしました。

・治水工事、新田開発、鉱山開発の実施

・人脈を生かした在地領主・郷士の登用

・城下町の建設、上水道網の整備

・産業育成(土地を無償貸与して活用させる、畳表に使われるイグサ生産の統制、煙草栽培等)

・全国初の藩札を発行

・寺社の復興

彼の福山治政においては農民一揆が一度も起っていません。

目付などの監視役の設置、法度を作るなどの家臣への縛りも皆無ですが、家中に問題は生じませんでした。

備前岡山藩主・池田光政みつまさは勝成を「良将の中の良将」と高く評価しています。

芸事を愛する勝成

勝成は俳諧・連歌・和歌を好み、自ら作歌してもいました。

浮世絵の祖と言われる画家・菱川師宣とは交流があり、美人画を注文したことも。

さらに、能楽にも熱心で、伏見城内にあった秀吉遺愛の組立式能舞台を拝領して演能したと言われます。

 

水野勝成の墓所

広島県福山市にある中国禅宗様式の山門が目立つ曹洞宗寺院、賢忠寺けんちゅうじには、水野家の菩提寺として水野家歴代の墓があります。

初代福山藩主・勝成の墓は立派な五輪塔です。

当寺院には、徳川家康から拝領した400年前のオランダ製砂時計、勝成の甲冑、肖像画、頭髪、茶碗などの遺品も所蔵されています。

<水野家菩提寺 賢忠寺:広島県福山市寺町4-24>

 

きょうのまとめ

水野勝成とは?簡単にまとめると

① 初陣から晩年まで猛者の名を欲しいままにした倫魁不羈の武将

② 放浪時代の苦労と経験を生かす治政を敷いた福山の名藩主

③ 腕一本で多くの武将の元を渡り歩いたのち、徳川家に命を捧げた男

でした。

知れば知るほど魅了されるのが「強い名君主・水野勝成」ですね。

 
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku