八幡太郎義家と呼ばれ、源氏が誇る英雄・源義家。
源氏といえば、現代の私たちには源頼朝のほうがピンと来るかもしれません。
それぞれの時代で活躍した源氏の武将たちですが、同じ源氏というだけでなく、この二人には特別な関係性がありました。
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どうして義家でないとダメなのか
源義家以降の源氏の武将の多くが「八幡太郎義家」を神格化します。
自分たちの祖先を神のように特別視し、自身を鼓舞して戦いに臨んだことが知られています。
しかし、ここでちょっと疑問です。
清和天皇から臣籍降下した源氏の中にはもちろん義家以前の代にも源姓の武将がいます。
義家の父親・頼義も、祖父の頼信も同じ源氏。
後世の源氏たちはなぜ義家からの血筋であることを強調したのでしょうか?
それについての端的な答えは、「義家の英雄としてのスケールが大きかったから」となるでしょう。
また、いくつかの源義家像に対する都合の良い印象操作があったことも否めません。
では、だれが印象操作したのでしょうか。
源頼朝こそそれを行った人物だったのです。
頼朝にとって都合のよかった義家像
源義家の行いについて注目すべき点を考えてみましょう。
義家の行い
まず、清和源氏として最初に源姓を名乗ったのが源経基でした。
経基を初代としてそこから4代目が源義家の父親の頼義。
義家の父親の頼義は、1051年の前九年の役で豪族安倍氏の反乱を鎮圧する活躍をした武将です。
その彼をかねてから高く評価していた平直方が頼義を自分の娘の婿に迎えます。
そして生まれたのが義家でした。
義家は父親である頼義を上回るほどの勇猛さで戦に活躍します。
そして義家は、
・後三年の役で大いに活躍。朝廷から私闘の扱いとされて報償がなかったため、自分の私財を褒美として家来たちに分け与え、彼らを感激させた
・平直方の鎌倉の所領を譲り受け、関東での基盤を作った
のです。
意識的に増やされた義家の伝承?
「源氏」「鎌倉」とくれば、鎌倉幕府を開いた源頼朝を連想するのは容易いですね。
頼朝は、義家から数えて5代目の直系です。
自分中心の世の中を作っていき、鎌倉で関東の武士勢力をまとめ上げるには、義家の勇姿や情け深さを讃えた伝承は頼朝にとって都合のよいものでした。
武士の鑑とされる義家をどんどん神格化していけば、その直系子孫である頼朝自身のイメージの向上に繋がるのです。
義家関連の伝承は、義家が生きていた時代からずれて、多くが平安時代末期から鎌倉時代になって作られたといいます。
そこに頼朝の意思も影響していたでしょう。
源平合戦に勝利したのも八幡太郎義家の刀のおかげ?
義家が持っていた源氏重代の刀に髭切という名刀がありました。
その刀は時代によって名を
「髭切」
↓
「鬼丸」
↓
「獅子ノ子」
へと変えていました。
「対になるよう作られたもう一振りの刀・「小烏」と一緒に置いておいたところ、獅子ノ子が小烏を切ってしまった」
という逸話から、その刀が「友切」と呼ばれるようになりました。
そんな源氏の宝とも言われる名刀を持っていた源義朝、頼朝親子ですが、なかなか戦に勝てません。
それを嘆いた義朝に、菩薩による「刀の名を髭切りに戻せば剣の力が戻る」というお告げがあったのです。
刀の名を髭切に戻すと、刀には精彩が戻り、結局頼朝は源平合戦に勝利しました。
そしてそれは、つまり「源氏の祖・八幡太郎義家の子孫が持つ宝刀のおかげ」となったのです。
刀の威力と共に、頼朝は自分こそが源義家の再来、のように演出したかったのかもしれません。
きょうのまとめ
今回は源義家と頼朝の関係についてご紹介いたしました。
簡単にまとめると
① 源頼朝は源義家から数えて5代目の直系子孫であった
② 頼朝が「八幡太郎義家」のブランドイメージを作っていった
③ 血統と共に頼朝は義家の伝承や刀、「鎌倉」という土地の共通性から自分自身の源氏嫡流としての正当さを主張した
義家の直系である源頼朝についていけば間違いない、安心だ、という思いは鎌倉武士たちの士気を盛り上げました。
頼朝のブランド戦略は見事成功です。
その証拠に、「八幡太郎義家の子孫なのだから」という信仰に似た考えは、その後も新田義貞、足利尊氏などの源氏の子孫たちに受け継がれていくのでした。
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