明治を代表する俳人・正岡子規と『吾輩は猫である』などで知られる小説家・夏目漱石が親友であったという話は有名です。
東大予備門の同窓生として数年を共に過ごした後、子規は大学を中退、漱石は卒業と、別々の道を行くことになりますが、その交流は生涯続いていきました。
性格にしても、子規は活発で行動的。漱石は神経質で物静かと、いかにも対照的な2人。
一見相容れない両者の関係がどのように築かれていったのか…今回は残された逸話のなかから探っていきましょう。
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夏目漱石との出会い
東大予備門時代・落語を通して意気投合
子規と漱石が出会ったのは、1889年、東大予備門の同窓生だった2人が、22歳のころの話です。
子規は幼少から落語を好んでおり、松山にいた時代は塾に行くのをサボって落語を見に行き、母八重から大目玉を喰らったという逸話も。
そして漱石も落語が好きで、2人は落語の寄席にて交友を深めたといいます。
最初に話しかけたのは、子規のほうからでした。漱石いわく、子規は交友関係を選ぶ性格で、興味のない人間には見向きもしなかったとのこと。
自分に近づいてきたのは他の者より、少しは落語の話ができると思ったのではないかと言っています。
互いの才能に惹かれ合った2人
「他より少しは落語の話ができるのでは」というきっかけで付き合うようになった2人でしたが、関係が深まっていったのは、やはり互いの才能に惹かれるものがあったからでしょう。
漱石は子規のリーダーとしての性質を評価しており、自分も一緒に行動する際は、しばしば言いなりになっていたと話しています。
一方、子規は漱石が英語のスピーチをした際、原稿も見ずにスラスラと話して見せたことに驚いたなどという話が。
その英語力は学内でもトップクラスだったといいます。
また子規の俳句や短歌を集めた文集『七草集』に漱石が目を通した際、漱石は漢文を使った評論を返し、「英語だけではないのか」と、子規を感心させました。
漱石の本名は金之助でしたが、このときの評論の文末にはすでに、ペンネームとして「漱石」の名が書かれていたとのこと。
これは中国の故事成語に由来する名前で、子規も若いころは同じペンネームを使ったことがあったといいます。
落語がそうだったように、2人は同じものを好む傾向があったのでしょうか。
夏目漱石の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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再会
子規は大学を中退して新聞『日本』の記者になり、漱石は無事卒業して英語教師に。2人は別々の道を歩んだものの、1895年、28歳のころに再会します。
松山にて52日間の同居生活
漱石が子規の故郷である愛媛県松山市の中学に赴任した折、子規を自身の下宿先に招き入れたのです。
それ以来、2人は52日間の共同生活を共にしました。
このころ子規は持病の結核を悪化させており、一緒に暮らした漱石も「無理をするな」と、しきりに気に掛けていたといいます。
しかしそんな心配をよそに、作品の執筆に精を出していた子規には目を見張るものがあり、影響を受けた漱石も、子規の俳句会に参加するようになったとのこと。
また子規は給料が安いにも関わらず行動的だったため、漱石はずいぶんとお金の肩代わりをしたという話も。
「金の切れ目は縁の切れ目」などと言いますが、2人の仲が続いたことを見ると、相当な信頼関係にあったことがわかります。
漱石にだけ弱音をもらした子規
漱石との同居期間を終えて、晩年の子規は東京都台東区の子規庵で暮らすようになります。
結核の病状はかなり進行していたものの、周囲には弱々しい姿を見せず、作品の執筆や後進の指導に精を出していました。
この男らしい子規の振る舞いに、多くの弟子たちが憧れたことでしょう。
しかしその一方、親友である漱石には、弱音をもらしていたという逸話もあります。
1900年から、文部省の命によってイギリスへ留学していた漱石は、子規と手紙を通じてやり取りをしていました。
なんでも子規からの手紙には「自分はもうダメなのかもしれない」という旨が書かれていたとのこと。
子規は身動きが取れない自分の体のことがあってか、漱石からイギリスでの暮らしの報告がくるのを心待ちにしていたといいます。
しかしこのころの漱石は、英文学の研究に大きなストレスを感じており、とても手紙を返せるような精神状態ではありませんでした。
病床に伏す友の望みに応えることができなかった悔しさと、追悼の意味もあってでしょうか。
子規の没後、漱石は『吾輩は猫である』を、子規が創刊した雑誌『ホトトギス』にて発表しています。
これが漱石の出世作になっているわけですから、子規が亡くなってからも、2人は持ちつ持たれつの関係だったのだな…と、感慨深い気持ちにさせられます。
きょうのまとめ
正岡子規と夏目漱石の2人が生涯親友であり続けたのは、子規の情熱溢れる行動力、漱石の勤勉さや心遣いに、お互い惹かれるものがあったからでしょう。
学生時代いくら仲が良くても、卒業すれば疎遠になってしまうことのほうが多いものです。
東京・イギリスと、距離が離れてしまった2人の関係が途切れなかったことはまさに、真の友情の証といえますね。
最後に今回の内容を簡単にまとめておきます。
① 落語を通して知り合った2人は、互いの才能に惹かれて関係を深めていった
② 漱石は松山での同居生活にて、病気を患いながら活発に活動する子規に感銘を受けた
③ 漱石は子規にとって唯一、弱音をもらせる友人。死後も雑誌『ホトトギス』を通してその関係は続いた
著名人同士が親しかったという話は、やはり興味をそそられます。そして辿ってみると、想像以上に熱い友情が垣間見えるものですね。
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