短歌で辿る正岡子規の生涯|子規はどんな景色を見ていた?

 

正岡まさおか子規しきは俳句がすっかり過去のものになっていた明治期において、

世の中に俳句の良さを広め、もう一度息を吹き込んだ偉業を残した人物です。

「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」

代表作であるこの句は、日本人なら知らない人はいないでしょう。

そして子規は俳句と同時に、「五・七・五・七・七」で構成される短歌においても多数の作品を残し、短歌界にも大きな影響を与えました。

俳句が有名すぎるので陰を潜めている印象がありますが、子規の短歌には、その生き様が表れたものが軒を連ねます。

今回はそんな正岡子規の短歌にスポットを当ててみましょう。

 

青年期の作品

正岡子規

正岡子規
出典:Wikipedia

隅田てふ 堤の桜 さけるころ 花の錦を きてかへるらん

隅田てふちょう 堤の桜 さけるころ 花の錦を きてかへるらん

子規の生涯初めての短歌です。

隅田川に沿って立ち並ぶ桜の木は当時も有名なお花見スポットでした。

「花の錦をきてかへるらん」というのは、桜を見て帰ってきた友人の肩に、花びらが乗っているのを、まるで花柄の着物を着ているようだと表したものです。

子規は幼少から友人たちと回覧雑誌を作るなど、文学に傾倒しており、初めて短歌を詠んだのは1882年、15歳のころの話でした。

当時、子規の周りの友人たちは学問を志し、次々と上京。一方で子規は母方の実家から援助を受けている家庭事情もあり、簡単には上京を許してもらえませんでした。

上記はそんな状況のなか、彼が東京の友人へ宛てた手紙に書かれていたもの。

東京の友人はそんな華やかな景色を見ながら過ごしているのだろうな…と、子規は憧れを募らせていたのです。

九つの人九つの場を占めてベースボールのはじまらんとす

九つの 人九つの 場を占めて ベースボールの はじまらんとす

こちらは子規が東大予備門に通っていたころの作品。

この時期の子規は友人たちから「野球狂」と呼ばれるぐらい、野球に没頭しており、歌にもしているのです。

短歌に「ベースボール」と横文字が入っているのは非常にインパクトが強いですね。野球という呼び方が一般的になった現代なら、違った作品になっていたかもしれません。

横文字であることが時代背景を感じさせる要素になっているのもまた、不思議なものです。

卯の花の 散るまで鳴くか 子規

卯の花の 散るまで鳴くか 子規ほととぎす

こちらは短歌ではなく俳句ですが、子規の名に由来する一句ということで紹介します。

卯の花というのは、ウツギというアジサイ科の植物。ホトトギスの鳴き声を聞きながら梅雨明けを待っているような、そんな印象を受ける一句ですね。

子規は22歳のころに結核を発症し、病床に伏してしまいます。

その際、何度も血を吐く自分を励ますために、ホトトギスに関する句をいくつも詠みました。

ホトトギスは「喉から血が出るのでは」と思うような勢いで鳴く鳥。子規の俳号はその姿に、病と闘う自分をなぞらえて付けられたのです。

 

晩年の作品

くれないの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる

くれないの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる

子規の短歌でも隋一の名作と呼ばれる作品です。

薔薇は5~6月に咲くもの。いずれ咲くその時期を待つ、春のまだ柔らかい芽を、しとしとと降る雨が濡らし、一層瑞々しさを引き立てているような、そんな印象を受けます。

晩年の子規は病状の悪化するなかでも、弟子たちを呼び寄せ、盛んに俳句会や短歌会を行いました。

そのなかで生まれたこの作品に、弟子たちも大いに感心したことでしょう。

いちはつの 花咲きいでて 我目には 今年ばかりの 春いかんとす

いちはつの 花咲きいでて 我目には 今年ばかりの 春いかんとす

「イチハツの花が咲き始めたのを見て、自分が春を生きられるのも、今年で最後かな…と感じた」といった具合でしょうか。

この辺りから子規は、もう自分の先は長くないと悟った様子を歌のなかにも表しています。

瓶にさす 藤の花ぶさ みじかければ たたみの上に とどかざりけり

瓶にさす 藤の花ぶさ みじかければ たたみの上に とどかざりけり

この歌も病床に伏す子規ならではのものです。寝ている状態でもなければ、飾られた花と畳との隙間に注目するようなこともないでしょう。

子規は起き上がれない体になっても、自分の目から見えているその景色を歌に残そうとしたのです。

空想で描かないのは、写実主義といわれる子規だからこそといえますね。

足たたば 北インヂヤの ヒマラヤの エヴェレストなる 雪くはましを

足たたば 北インヂヤの ヒマラヤの エヴェレストなる 雪くはましを

もし自分の足が立つなら、世界最高峰のエヴェレストに登って雪を食べてやるのに…。

病気でさえなければ、自分はどんなことでも成し遂げられるという、悔しさが表れた作品ですね。

子規は死の2日前まで句を詠み続けました。幼少より大志を抱き続けてきた彼は、身動きの取れない体になっても、後世に何か残さねばと抵抗し続けていたのでしょう。

彼の担った俳句界、短歌界の繁栄は、その精神力の成せるものだといえます。

 

きょうのまとめ

子規の作品は一見、ストレートすぎる部分もあるため、「ただ見たままを書いているだけだ」などと言われ、その評価が分かれるものも少なくありません。

ただ晩年の病床においての作品のように、見たままを書いたからこそ、子規にしか書けないものになった歌がたくさんあります。

想像力豊かな作品もおもしろいですが、経験を伴ってこそ説得力のある作品になるというのも、またしかりです。

最後に今回の内容をまとめておきましょう。

① 人生初の短歌は、東京への憧れを表したもの

② 夢中になった野球に関する短歌もたくさん生み出している

③ 晩年の作品は、病床から見える景色をそのまま表した写実的な描写が特徴的

こう見てみても、子規の短歌は彼の人生がそのまま作品になったものなのだな、と感じさせられます。

紹介したもの以外の作品に向き合ってみても、その人となりは鮮明に浮かんでくることでしょう。

 
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