牧宗親とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

鎌倉幕府御家人・牧宗親まきむねちか

源頼朝の浮気(?)に嫉妬した北条政子に命じられ、頼朝のめかけの邸宅を取り壊したことで知られるこの人物。

北条時政と頼朝の確執にまで発展したこの出来事は、ある種、鎌倉幕府のターニングポイントだったともいえます。

それ以外のことに関しては、あまり取り上げられることもありませんが、実は頼朝没後の幕府の動向にも大きく関わっていたり…。

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、山崎一さんに配役が決定。

牧宗親とはいったいどんな人物だったのか、放送に先駆けてしっかりチェックしておきましょう!

 

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牧宗親はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:駿河国大岡牧(現・静岡県沼津市)
  • 生年月日:不明
  • 死亡年月日:不明
  • 駿河大岡牧の豪族。北条時政の郎党となり、幕府では武者所に務めた。頼朝の妾・亀の前の邸宅を取り壊し、叱責を受ける事件も。
 

牧宗親 年表

年表

西暦(年齢)

?年(?歳)大納言・平頼盛に仕える。

1182年(?歳)北条政子の命により、源頼朝の妾・亀の前の邸宅を取り壊す。憤慨した頼朝により、もとどりを切られる。

1185年(?歳)頼朝の勝長寿院供養に随行。同年、捕えられた平時実ときざねを鎌倉に連行する。

1191年(?歳)北条時政の正室・牧の方の鎌倉入りに随行。

1195年(?歳)頼朝の東大寺供養に随行。

 

牧宗親の生涯

牧宗親の生涯にまつわるエピソードを紹介します。

大岡牧土着の豪族・牧の方の兄

牧宗親は出自に関する史料が存在せず、頼朝に仕える以前の動向もほとんどわかっていません。

はっきりしているのは、平清盛の異母弟にあたる大納言・平頼盛に仕え、駿河国大岡牧の経営を任されていたということ。

宗親に関する記述には、

『愚管抄』:朝廷の文官であった

尊卑分脈そんぴぶんみゃく』(系図書):頼盛の母・池禅尼いけのぜんにの弟に宗親の名があり、この人物と牧宗親が同一人物

などがあります。

しかし、宗親は頼朝に仕えて以来、あくまで武士として役を与えられているため、この説はどちらも信憑性が薄いと考えられています。

朝廷で文官をやっていたなら、もっと政務に携わるような仕事を与えられるだろうということですね。

以上の理由から、宗親は大岡牧土着の豪族で、平頼盛に所領を寄進して、この地の経営権を得ていた人物だと考えられます。

また、宗親は北条時政の後妻・牧の方の近親者であったともされますが、これに関する記述も史料によってまちまち。

『愚管抄』:牧の方の父

『吾妻鏡』:牧の方の兄

などと、されています。

ただ、前述のように『愚管抄』の記述には怪しい部分が多いため、『吾妻鏡』の説を採って、牧の方の兄と見る方が自然です。

時政は当時、なんの官職ももたない地方豪族だったため、朝廷の文官の子を嫁に貰うとは考えにくいともされています。

源頼朝の臣下に

1180年になると、朝廷にて平氏と後白河法皇が対立。

源頼朝が平氏討伐を掲げて挙兵します。

このとき、北条時政が頼朝に従っているため、時政と姻戚関係にある宗親も頼朝のもとへ参じたのでしょう。

頼朝のもとでは、主に武者所に登用されました。

源平合戦で捕らえられた平宗盛らを源義経が連行した際には、北条時政とともにこれを引き受け、鎌倉まで連れ帰る役を任されていたりもします。

(※武者所…武士の詰め所のこと)

勝長寿院の完成、東大寺の再建に際しては、供養に向かった頼朝に随行。

勝長寿院のときの随員は32人とされており、その一員に選ばれた宗親は、それなりの近臣になっていたと読み取れます。

頼朝と北条時政の対立を生んだ「亀の前事件」

宗親の逸話で一番よく知られているのが、頼朝の妾・亀の前に関するものです。

頼朝の正妻は、北条時政の長女・北条政子です。

将軍には側室が何人もいるのが当たり前でしたが、政子はとても嫉妬深く、頼朝がほかの女性と懇意にするのを快く思いません。

そのため、頼朝は亀の前という妾を寵愛していたものの、これを秘密にしていました。

しかしあるとき、継母・牧の方からこのことを聞いた政子は激怒。

宗親に命じて、亀の前の邸宅を取り壊してしまうのです。

すると今度は頼朝が激怒し、宗親のもとどりを切り落としてしまいます。

髻は要はちょんまげのことで、これは烏帽子えぼしという縦長の帽子を被るための髪型です。

烏帽子は成人した武士でないと被ることを許されないため、髻はそのまま、一端の武士であることを示しています。

それを切られてしまうというのは、とんでもない恥辱。

まあ、武士でなくとも勝手に髪の毛なんか切られたら怒ると思いますが…。

と、この一件で憤慨したのは宗親ではなく、北条時政でした。

どうして?

宗親は頼朝に仕える身ではありますが、直属の部下ではなく、時政の郎党です。

要は処罰するなら時政を通すのが筋なのに、すっ飛ばして直接罰を与えてしまったわけですね。

頼朝の挙兵時、誰よりも先に配下に加わった時政ですが、この一件で鎌倉を離れ、伊豆へと帰ってしまいます。

このときの頼朝と時政の対立が、のちに北条氏が幕府の実権を握ろうと企てる遠因になったとも…?

牧宗親と大岡時親は同一人物?

1195年の東大寺供養以降、宗親の名は史料上に登場しなくなります。

この時期からは大岡時親という人物が現れ、これは宗親の息子であると見られていました。

しかし、時親の官職は備前守びぜんのかみで、単に武者所に務めていた御家人の息子がぽっと出で就けるような地位ではありません。

そのため、宗親が備前守の官職を賜ったのをきっかけに改名したのではないかと考えられています。

宗親の本拠は大岡牧なので、「大岡」。

北条政から時の字をもらって「時親」というところでしょうか。

頼朝の没後は、幕府の実権を握るべく時政が暗躍しており、時親もその諸事に関わっています。

敵対勢力の比企氏を滅ぼした際には、時親が死骸実験を担当(比企能員よしかずの変)

時政と畠山氏が対立した際には、時親が北条義時に挙兵を促し、畠山氏を討たせました。

ただ、この一件を断り切れなかった義時も、あまりに強引な時政の姿勢に反感を覚えていきます。

両者が対立すると、多くの御家人が義時に味方し、時政は失脚。

共謀者の牧の方、時親も揃って出家することとなりました(牧氏事件)

 

きょうのまとめ

牧宗親はその記録自体、あまり残っていない人物ですが、それでも突き詰めてみると、北条時政の忠臣であった姿が浮かび上がってきます。

一御家人に過ぎないと思いきや、幕府の実権が北条氏へと移っていく経緯にもしっかり関わっていることに驚かされますね。

最後に今回のまとめ。

① 平頼盛に寄進する形で大岡牧の経営を任された地方豪族。北条時政の後妻・牧の方の兄と考えられる。

② 時政に伴って幕府御家人になり、主に武者所へと務めた。

③ 源頼朝の妾・亀の前の邸宅を、北条政子の命で取り壊す。宗親は激怒した頼朝に髻を切り落とされ、越権行為に憤慨した時政が鎌倉を離れる。

④ 息子と見なされる大岡時親は、宗親と同一人物だと考えられる。時政が幕府の実権を握ろうとすると時親も協力するが、最後は北条義時によって失脚させられた。

史料によっても出自がまったく異なる宗親。

大河ドラマでは、役に選ばれた山崎さんいわく、台本は公家風の人物だったといいますが…。

どの説が採用され、どんな人物として描かれるのか、注目が高まりますね!

【参考文献】
杉橋隆夫氏の諭考「牧の方の出身と政治的位置」を読む|宝賀寿男
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/makinokata.htm
Wikipedia/牧宗親
Wikipedia/牧氏事件

 
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