鎌倉幕府御家人・工藤祐経。
文化人としての素養から源頼朝に重用されたほか、一族間の壮絶な所領争いを展開したことで知られる人物です。
この所領争いを巡って『曾我物語』というひとつの作品が成立していたりも。
御家人としてはそれほど活躍していないものの、この時代に大きなインパクトを残した人であることはたしかですね。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、お笑いユニット我が家の坪倉由幸さんに配役が決定!
大河初出演ということで、どんな演技を見せてくれるのか期待がかかります。
放送に先駆け、工藤祐経がどんな人物だったのか、しっかりチェックしておきましょう。
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工藤祐経はどんな人?
- 出身地:伊豆国田方郡伊東荘(現・静岡県伊東市)
- 生年月日:1152年?
- 死亡年月日:1193年6月28日(享年42歳?)
- 伊豆国伊東荘の豪族。朝廷に仕えていた経緯から文化人の素養があり、鎌倉幕府では源頼朝に重用された。
工藤祐経 年表
1152年?(1歳)伊豆国伊東荘の豪族・工藤祐継の嫡男として生まれる。
1166年(15歳)元服。伊東祐親の娘・万劫御前と結婚する。
1167年(16歳)上洛し、内大臣・平重盛に仕える。在京中を狙い、叔父の伊東祐親が伊東荘を横領。
1172年(21歳)朝廷の武者所一臈(筆頭)となる。祐親に伊東荘の返還を迫るも断じられ、妻の万劫御前と離縁させられる。
1176年(25歳)郎党を使い、伊東祐親ら親子を襲撃。祐親の嫡男・河津祐泰を暗殺する。
1182年(31歳)京都より鎌倉へ下向。源頼朝に仕え、横領されていた伊東荘を取り戻す。
1184~85年(33~34歳)源範頼軍に従い、源平合戦に参加。豊後国(現・大分県)へ渡り戦った。
1190年(39歳)源頼朝の上洛に随行。右近衛大将拝賀に際し、参院の供奉(行列)に加わる。
1192年(41歳)源頼朝の征夷大将軍就任の際、朝廷の勅使に引き出物の馬を引き渡す役を任される。
1193年(42歳)「富士の巻狩り」にて、河津祐泰の遺児・曽我兄弟によって誅殺される。
工藤祐経の生涯
以下より工藤祐経の生涯にまつわるエピソードを紹介します。
祐経の後見人となった伊藤祐親
平安時代末期、工藤祐経は、伊豆国伊東荘の豪族・工藤祐継の嫡子として生まれます。
しかし父祐継は祐経が10歳にも満たないうちに他界し、以降は叔父の伊東祐親が後見人となることに。
この祐親と、祐継の関係が少しばかりややこしいもので、それぞれ以下のような出自にあります。
一族惣領・工藤祐隆の嫡流の孫
・祐継(父)
工藤祐隆の後妻の連れ子が産んだ子
嫡流の祐親からして、祐継はほとんど他人と言っても過言ではないですよね。
しかし、祐隆は祐継を嫡子に選び、一族の本拠地である伊東荘を与えるのです。
一方、祐親に宛がわれたのは伊豆国河津荘。
このことから、祐親は
「なぜ嫡流の自分を差し置いて…」
と感じていたといいます。
そこに、祐継が先立って没することになったのです。
祐親は床に伏せる祐継に向かい、
「息子の祐経は私が後見人となって、立派に育てましょう!」
と言い放ったといいます。
祐継はその言葉に喜び、
・祐経と万劫御前とで、伊東荘、河津荘の両方を切り盛りしていくこと
などのことを祐親に約束させ、土地の権利書は祐経の母親が大事に保管しておくようにと命じました。
祐継は、祐親が自分に恨みを抱いているとは知りもせず、一族手を取り合ってやっていけると信じていたのですね。
その後、祐経は元服まで大切に育てられ、父の遺言にあった通りに、万劫御前と結婚。
次いで、祐親に連れられて上洛すると、内大臣・平重盛に仕官しました。
ここまではよかったのですが、知っての通り祐親の狙いは伊東荘を自分のものにすること。
なんと、祐経が京都で職務に当たっている隙をついて、伊東荘を横領してしまうのです。
所領争いと河津祐泰の暗殺
京都で真摯に職務を全うしていた祐経は評判もよく、21歳を迎えるころには、武者所一臈(筆頭)の地位にまで出世しています。
(※武者所…御所を警護する武士の詰め所)
ちょうどこのころ、郷里の母から手紙が送られてきました。
同封されていたのは、父祐継から下された所領の権利書。
そう、実はこれまで祐経は伊東荘が自身に相続されたことを知らず、祐親の横領も見過ごしていたのです。
この手紙によって真実が明るみに出ると、祐経はさっそく、祐親に所領の返還を迫ります。
しかし、当の祐親は
「これまで育ててやった恩を忘れたか!」
と逆ギレ。
娘の万劫御前を祐経と離縁させると、相模国の土肥遠平に嫁がせてしまいます。
祐経は所領も妻も奪われることとなり、父祐継の遺言は何一つ守られていない状況になってしまったわけです。
その後、祐経は訴訟を起こすも、朝廷に所領を寄進していた祐親が優遇され、伊東荘が返ってくることはありませんでした。
こうなればもう、手段は選んでいられません。
ここから祐経は京都にいるフリをしながら、伊豆国大見荘に潜伏。
1176年、伊豆奥野で諸国の大名を集めた狩りが行われた際、その帰路を狙って郎党を差し向け、祐親を襲撃するのです。
しかし、このとき祐親を討ち損ね、代わりに祐親の嫡子・河津祐泰が亡くなってしまいます。
この祐泰の遺児が成長し、のちに「曾我兄弟の仇討ち」と呼ばれる事件を引き起こすことになるのです。
鎌倉幕府御家人として重用される
1180年になると、朝廷の権力を牛耳っていた平氏と、後白河法皇の対立を受け、全国の源氏へ平氏討伐の令旨が下されます。
源頼朝はこれに応えて挙兵し、鎌倉にて勢力を拡大。
伊東祐親は平氏方の兵として頼朝軍に捕えられ、1182年に自刃を選ぶこととなります。
この知らせは京都で士官していた祐経のもとへもすぐに届き、祐経は鎌倉へ下向。
叔父の工藤茂光、弟の宇佐美祐茂が頼朝に従っていた縁を使い、鎌倉幕府御家人に名を連ねることとなります。
御家人として出仕した祐経はすぐに頭角を現し、伊東荘を無事に取り戻したほか、全国20カ所に荘園を与えられるほど、頼朝から重用されました。
このほか、頼朝が右近衛大将、征夷大将軍などの官職に任じられた際は、いずれも任官の儀式において重要な役目を与えられています。
なんでも、関東の武士たちは戦の腕こそ立つものの、荒くれ者が多く、京都で文化人としての素養を培った祐経は目に留まりやすかったのだとか。
反面、そういった側面から重用されていただけあり、源平合戦にも赴いているものの、目だった武功は挙げていないようですね。
河津祐泰の遺児・曽我兄弟に討たれる
さて、幕府御家人として順風満帆に歩んでいた祐経でしたが、伊東荘を巡るいざこざはまだ決着が着いていませんでした。
祐経が伊藤祐親の暗殺を企てた際、代わりに亡くなった河津祐泰の遺児・曽我祐成、時致の兄弟が成長し、復讐の機会を伺っていたのです。
もとはと言えば祐親の横領が原因なものの、河津祐泰が亡くなったことは言ってしまえば、とばっちり。
いろんな事情がこんがらがっていて、もうどちらが悪いとも言えない状態になってしまっていますね…。
1193年5月、そんな曽我兄弟の復讐が遂げられる日がやってきます。
このとき、源頼朝は約70万人の御家人を集めた大規模な狩り行事「富士の巻狩り」を主催しました。
そのドサクサに紛れ、兄弟は祐経を暗殺するのです。
『曾我物語』では、暗殺にいたるその経緯について、こんなやり取りが描かれています。
復讐が決行される数時間前、兄の曽我祐成は、御家人が使う宿舎の配置を偵察していました。
その最中、標的である祐経の郎党に見つかり、なんと祐経の宿舎で行われている宴会に招かれることになるのです。
ここで祐経が祐成に言い放ったのがこんな言葉でした。
そのとき私は京都でお勤めをしていて、暗殺などできるわけがないのだから。
それなのに叔父の祐親殿は私を疑い、郎党を誅殺された…。
そういうわけだから、これからは同じ一族として仲良くやっていこうではないか」
曽我兄弟に狙われていると感づいていた祐経は、なんと嘘をついて丸め込もうとしたのです。
穏便に事を済ませたい気持ちはわからなくもありませんが…。
その後、宿舎をあとにした祐成が、物陰に隠れて宿舎内の会話に聴き耳を立てていると
祐経「私の郎党が河津祐泰を討ったことは間違いない」
郎党「それなら、恨みを買っても仕方ありません。用心されたほうがよいのでは…」
などというやり取りが聞こえて来たのだとか。
その日の深夜、酒を飲んで熟睡していた祐経は寝込みを襲われ、生涯を閉じることとなります。
『曾我物語』は軍記物ゆえ、脚色された側面も多いといいますが、事実だとしたら油断しすぎな気もしますね…。
工藤祐経の逸話
このほか、工藤祐経にはその人となりを表す逸話が多くあります。
歌舞音曲に長けていた
京都にて長年の士官をしていた祐経は、やはり文化人の側面が強く、歌を吟じたり、鼓を打ったりするのが得意だったといいます。
頼朝のもとへ出仕してからもこういった役に駆り出されることがたびたびあり、
・頼朝の鶴岡八幡宮参拝に際し、源義経の側室・静御前が舞を踊り、その傍らで鼓を打った
などの記録が残っています。
特に、平重衡の一件に関しては、このあと刑死に向かう重衡に対し、その兄・重盛に仕えていたことがある祐経も、思うところがあったようです。
とはいえ、宴席は通常、めでたいときに開かれるもの。
普段の祐経は宴会部長のような役回りだったのかもしれません。
御家人としての奢り
曽我兄弟の仇討ちの際も油断しまくっていたように、祐経には少なからず、頼朝から重用されていることに対する奢りがあったようです。
これを物語る逸話が、1190年、鎌倉の御所で双六大会が開かれたときのことでした。
祐経は当日、この会に遅れて参加したため、会場に入るともう席が埋まっていたという話。
そこで、年少の御家人・加地信実が座っていたのを無理矢理押しのけ、自分が座ってしまったというのです。
怒った加地は、転がっていた石を祐経の頭に打ち付け、流血させる騒ぎにまで発展したといいます。
のちのち、頼朝が両者のあいだを取り持つと、祐経は
「正しいのは加地のほうであり、私が恨みをもつことは一切ありません」
と、答えています。
祐経は冷静に考えれば道理をわかっているものの、無意識に
「俺は偉いんだぞ!」
という振る舞いをする傾向があったようですね。
きょうのまとめ
父祐継と、叔父の伊藤祐親のいさかいにより、生まれながらにして、一族同士恨み合う運命にあった工藤祐経。
その生涯は、いかにもこの所領争いに翻弄されたものでした。
所領を横領された祐経も不憫だけど、なんの罪もない父親を殺された曽我兄弟も不憫。
どうにも救いのない話ですよね…。
最後に今回のまとめです。
② 祐親の暗殺を計画。祐親を討ち損ね、祐親の嫡男・河津祐泰が亡くなってしまう
③ 祐親の自刃。祐経は頼朝のもとへ出仕し、伊東荘を取り戻す
④ 「富士の巻狩り」の最中、祐経は仇討ちの標的とされ、生涯を閉じた
【参考文献】
『曾我物語』新編日本古典文学全集|訳・梶原正昭、大津雄一、野中哲照
Wikipedia/工藤祐経
伊東家の歴史館|源頼朝と工藤祐経
http://www.ito-ke.server-shared.com/sub13.html
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