小村寿太郎とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

小村寿太郎の名前は、日本人ならば一度は聞いたことがあるでしょう。

ポーツマス条約を結んだり、不平等条約の改正に成功した人物。

教科書では、そう習いましたよね?

ですが、小村寿太郎はどのような人生を歩んできたのか、ということまでご存じの方は少ないように思えます。

そこで今回は小村寿太郎とはどんな人物だったのか、簡単にご紹介していきます。

 

小村寿太郎はどんな人?

プロフィール
小村寿太郎

出典:Wikipedia

  • 出身地:日向国飫肥藩(現在の宮崎県日南市)
  • 生年月日:1855年9月26日
  • 死亡年月日:1911年11月26日(享年57歳)
  • 明治時代に活躍した外交官・外務大臣。明治政府の悲願であった不平等条約の改正にも成功する。

 

小村寿太郎 年表

年表

西暦(年齢)

1855年(1歳)日向国飫肥おび藩に生まれる。

1861年(7歳)飫肥藩校・振徳堂に入学する。

1869年(15歳)長崎へ留学する。

1870年(16歳)大学南校(現在の東京大学)に入学する。

1875年(21歳)ハーバード大学に入学する。

1878年(24歳)ハーバード大学を卒業し、ニューヨークの法律事務所で研修を受ける。

1880年(26歳)帰国後、司法省に入省する。

1884年(30歳)外務省に入省する。

1893年(39歳)北京へ赴任する。

1894年(40歳)日清戦争が起こる。

1901年(47歳)第一次桂太郎内閣の外務大臣に就任する。

1902年(48歳)日英同盟調印を推進する。

1904年(50歳)日露戦争が起こる。

1905年(51歳)ポーツマス条約に調印する。

1906年(52歳)外務大臣を辞任する。

1908年(54歳)第二次桂内閣の外務大臣に就任する。

1911年(57歳)不平等条約の改正に成功する。外務大臣を辞任する。11月26日、死去。

 

小村寿太郎の山あり谷ありの人生

小村寿太郎は飫肥おび藩という小さな藩の、下級武士の長男として生まれました。

貧しい暮らしをしていたものの、小村は幼いころから頭脳明晰・成績優秀。

現・東大からハーバードへ

飫肥藩の藩校・振徳堂しんとくどうでは、教師たちの間でも小村の才能は高く評価されていたようです。

振徳堂を卒業後は、長崎へと英語を学ぶために留学します。

しかし、なんと長崎へ着くと英学塾がなくなっていました。

そこで小村寿太郎は独学で英語を勉強し、翌年には現在の東京大学にあたる大学南校へと貢進生(※)として入学するのです。

※優秀な成績を収めている者が、藩のお金で進学できる制度のことです。

大学南校には全国から選りすぐりのエリートが集まってきました。

ですが小村寿太郎はその中でも優秀で、官費生(=学費が免除される学生)になります。

さらに第1回文部省留学生として、ハーバード大学法学部に入学しました。

卒業後はニューヨークの法律事務所で、実務研修もしています。

不遇の時代から外交官へ転身

さて、日本に帰国した小村寿太郎は、司法省へと入ります。

入省後は判事として仕事をしていましたが、外務省からの打診を受けて外務省へ入省しました。

小村寿太郎は英語が堪能で、法律にも詳しかったためです。

しかし、上司を批判したとして、長い間仕事に恵まれない時期が続きます。

外務省内では、小村寿太郎の才能はなかなか評価してもらえなかったようです。

ですが外務大臣・陸奥宗光が小村の才能を見出し、それがきっかけで外交官としての道を歩むことになりました。

関連記事 >>>> 「外務省で干された小村寿太郎を救ったのは陸奥宗光!成功の秘訣は読書法?」

外務大臣に就任

清国公使館参事官として清国の北京に赴任したのを皮切りに、

小村は外務省内の重要なポジションを経て、桂太郎内閣の外務大臣に就任します。

そして

・日英同盟

・ポーツマス条約の締結

・不平等条約の改正(関税自主権の回復)

を成功させました。

特に不平等条約の改正は明治政府の悲願であり、最大の外交問題。

これを解決した小村寿太郎は、日本を独立国家に導いたといえるでしょう。

大仕事を終えた小村寿太郎は、それから一年も経たないうち、享年57歳でこの世を去りました。

 

小村寿太郎にまつわるエピソード

エリートなのに借金まみれ

先ほども書いた、小村寿太郎の不遇の時代。

小村が苦しめられたのは、なにも職場だけではありませんでした。

なんと、小村寿太郎は多額の借金も抱えていたのです。

その原因は父が作った借金と、その返済のために高利貸しから借りざるを得なかった借金でした。

総額は現在でいう2億円!

仕事には恵まれず、さらに借金地獄とくれば、精神的におかしくなりそうですよね?

しかし、そこは小村寿太郎という器の違う男。

貧しい生活を送るも、それを恥じることはなかったといいます。

さらにすごいのが、宴会の会費が払えないのにも関わらず、ちゃんと参加していたそうです。

招待されなくなっても、平然と参加し続けたといいますから、相当肝の据わった人物だったようです。

借金まみれであっても、誰に頼ろうともしなかった小村寿太郎。

ですが、気の毒に思った同僚たちが借金を減額してもらえうよう、貸主に働きかけたといいます。

ポーツマス条約の男気あふれる裏話

日露戦争の講和条約締結のため、日本の全権となった小村寿太郎。

本来であれば、元老であった伊藤博文が担うべきだったそうです。

しかし、会議が難航することは誰の目にも明らかだったようで、伊藤博文は尻込みをしたといわれています。

そんな「貧乏くじ」を、あえて引いたのが小村寿太郎でした。

ロシア側の全権はウイッテ。

数週間にわたる神経戦の末、交渉決裂寸前というところで交渉はまとまりました。

この交渉の結果、日露戦争の戦勝国は日本となりえたのです。

その夜、小村寿太郎はホテルで男泣きをしたのだとか。

しかし、下記に詳しく書いていますが、この条約の内容に日本国民の一部は納得しませんでした。

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暴徒化し、焼き打ちを行った人々もいました。

そこへ帰国した小村を、新橋駅で出迎えた桂太郎首相と山本権兵衛海相。

もし小村寿太郎が撃たれたら、ともに倒れる覚悟で小村の両脇にぴったりとついて歩いたそうです。

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。小村寿太郎についていかがでしたでしょうか。

小村寿太郎とは?

① 弱小藩に生まれながらも、自らの努力と才能で外務大臣へと昇りつめた

② 借金まみれで貧しい生活を送るも、まったく恥じなかった

③ ポーツマス条約締結後、命を狙われたが両脇を桂太郎・山本権兵衛が挟んで歩いてくれた

こちらのサイトでは他にも、小村寿太郎にまつわる記事をわかりやすく書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 

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