小村寿太郎が関税自主権を回復させた経緯|対米交渉がスムーズだった理由

 

1911年、当時の外務大臣

小村寿太郎関税自主権を回復したことはご存知だと思います。

ですが、その具体的な経緯をご存知の方は、そう多くないのではないでしょうか。

今回は小村寿太郎がどのように不平等条約の改正を果たしたのか、簡単にご紹介していきます。

 

関税自主権とは?

そもそも関税自主権とは何なのでしょうか。

関税とは、イメージとして、輸入品に課す税金のことです。

税金を課す目的は、自国の産業を守るためなどが考えられます。

そして関税自主権とは、その関税を独立国家が自主的に決められる権利のことです。

安政の五カ国条約

しかし独立国家とはいえ、発展途上国はこの権利を制限されることが多かったのです。

かつての日本もこの状態でした。

それは幕末、江戸幕府が安政の五カ国条約と呼ばれる条約を結んでしまったからです。

1858年、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスと締結した不平等条約のことをまとめてこう呼んでいます。

不平等条約とは、日本側が

(1)領事裁判権を認める

(2)関税自主権がない

などという意味です。

これら不平等条約の改正こそが、明治新政府にとって最大の外交問題でした。

残すは関税自主権の完全回復

不平等条約の問題点のうち、関税自主権の回復(関税自主権も一部は回復)以外は、

1894年に締結された日英通商航海条約を皮切りに解消していました。

そこで残る関税自主権の完全回復を目指すべく、外務大臣の小村寿太郎が尽力したのでした。

 

イギリスがだめならアメリカと交渉

日英通商航海条約の有効期間は12年(ただし1899年より発効)、

小村寿太郎は1910年の春から、イギリスと条約の改定協議を始めます。

難航したイギリスとの交渉

当時の日本は、イギリスと日英同盟(1902年、ロシアの動きに対抗して結ばれた同盟のこと。日露戦争の際にも、有利に働きました。)を結んでいました。

しかし、交渉は難航。

協定関税(条約によって決められた関税)の廃止を求める日本に対して、イギリスはそれに反対しました。

その打開策として小村寿太郎が導き出したのが、優先交渉国の変更でした。

イギリスがだめなら、他の国にしようと考えたわけです。

そこで小村が選んだのはアメリカでした。

アメリカとの交渉がスムーズにいった理由

アメリカとは1910年10月から交渉が開始されると、翌年2月には日米通商航海条約に調印、

関税自主権の完全回復に成功します。

アメリカとの交渉がスムーズにいったのには理由があります。

当時のアメリカが、日本との協調路線に転じたこと。

そしてもう一つは、日本がアメリカ側に見返りをきちんと用意していたからです。

この頃、アメリカでは「日本人移民排斥はいせき運動」が起こっていました。

明治初期より、日本人移民労働者がアメリカへ流入したという背景があります。

その日本人たちを追い出そうという動きが、アメリカ国内で見られたのです。

そこで日本側は、移民を制限する日米紳士協約を結んでいました。

これに着目した小村寿太郎は、関税自主権回復の交渉材料として持ち出します。

小村は関税自主権を回復をする代わりに、この日米紳士協約を維持することをアメリカ側に約束したというわけです。

アメリカとの条約改正に成功した小村は、その後もイギリス・ドイツ・フランスとの間でも改正に成功。

これにより、明治政府の悲願であった不平等条約の改正が達成されました。

 

きょうのまとめ

今回は、小村寿太郎が関税自主権を回復させた経緯についてご紹介しました。

① イギリスとの交渉がうまくいかなかったため、アメリカとの交渉をはじめた

② アメリカとの交渉にはきちんと見返りを用意して臨んだ

③ 小村寿太郎が最終的に不平等条約の改正を達成した

こちらのサイトでは他にも、小村寿太郎にまつわる記事をわかりやすく書いています。

ご興味をお持ちの方は、ぜひご覧になってくださいね。

 

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