南北朝時代で強い武将と言えばだれを思い浮かべますか。
足利尊氏でしょうか。
新田義貞でしょうか。
やはり、楠木正成?
彼らもそれぞれに個性的な強みを持っているのですが、それに勝るとも思わぬとんでもない“怪物ぶり”を発揮した人がいるのです。
なんとその人、公家です。
しかも、戦場で大活躍したのが今なら“アンダー20枠”の10代後半から20才まで。
大人の本家武将さんたち、みんな真っ青です。
最強公家武将北畠顕家伝説、始まりです。
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足利尊氏談話
なにがあったんでしょうね。
北畠顕家のデビュー戦
北畠顕家は『神皇正統記』をあらわしたことで有名な北畠親房の長男です。
まだ幼いころからその早熟の天才少年ぶりを周囲から絶賛されておりました。
わずか15才にして、後醍醐天皇から東北地方の守りを任され、翌年には津軽にいた北条の残党を蹴散らします。
足利尊氏の決起
さて、これから問題の戦いにいよいよせまってゆきます。
そもそも、後醍醐天皇の討幕に参加し、その成功に大きく貢献した足利尊氏。
しかし、その後の恩賞などに不満があり、後醍醐天皇と抗争することになります。
鎌倉で独自路線を進もうとする尊氏。
しかし、そこに後醍醐天皇の意をふくんだ新田義貞の兵がやってまいります。
尊氏はそれを撃退。
その勢いでもって京へと進軍します。
北畠顕家、おそるべき強行軍
これに対し、北畠顕家は東北から南下し、尊氏の息子義詮、桃井直常の守る鎌倉を落としてしまいます。
顕家のすごさはまだまだここからです。
京を占領している尊氏のもとまでものすごい勢いでオーバーラップ。
ではありません、強行軍!
その速度はなんと600kmの行程をわずか半月で。
1日平均40km弱。
途中、幾多ある川越え坂越えなどの悪いピッチ・コンディションもお構いなしです。
ちなみにこの記録、あの伝説となった豊臣秀吉の「中国大返し(※)」ですらまるでおよびません。
(※)「本能寺の変」の直後、豊臣秀吉が中国地方の前線から大急ぎ取って返し、京近くの山崎で明智光秀の軍を破った時の強行軍。(参考記録)約200kmをほぼ10日。
豊島河原の戦い
滋賀県大津市坂本まで上がってきた北畠顕家は、そこで新田義貞と楠木正成の2トップと合流。
コンビネーションで、近くにいる敵を次々破り、ついにあの戦いをむかえます。
『太平紀』によると、大阪府北部の豊島河原で自軍の2倍の尊氏軍を撃破。
尊氏は「普通できひんて(「もうダメだ」という意味)」とばかりに、九州へ落ち延びてゆきました。
北畠顕家、二回目の上洛軍
この戦勝を良しとして、北畠顕家はいったん東北に戻されます。
しかし、足利尊氏とてまたしぶとく勢力を盛り返します。
すると後醍醐天皇はたまりかねて、顕家をふたたび招集。
顕家は期待に応え、まず手始めに関東諸豪を圧倒、鎌倉を落とし、どんどん京へとせまってきます。
しかし、この時なぜか越前(今の福井県東北部)にいた新田義貞と合流しません。
伊勢(今の三重県の大部分)の方へ向かいます。
これに対し、北朝方は高師泰らの軍が追い、伊勢雲出川・櫛田川の戦いでドロー。
その後、北畠顕家は近畿各地で勝ち負けを繰り返します。
すっかり消耗したところを大阪堺の石津で高師直の軍勢につかまり、善戦むなしく敗死をとげました。
この時、顕家わずか20才です。
きょうのまとめ
ほぼ同じころ、新田義貞も戦死し、南朝方は一気に厳しくなります。
楠木正成(※)もふくめたいわゆる「黄金世代」の主力がいなくなります。
しかし、北朝方足利尊氏も弟直義らと仲たがいをはじめ、事態はどんどんややこしくなってゆきます。
(※)楠木正成はすでに「湊川の戦い」で敗死しております。
① 北畠顕家は鎌倉京まで600kmをわずか半月で強行軍し、足利尊氏の軍を破った
② 北畠顕家は再度の上洛戦でもものすごい快進撃を見せた
③ 北畠顕家もたびかさなる戦いにさすがに消耗し、堺の石津で敗死した
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『太平記』や。もうぜんぶ『太平記』や。(北畠が)また一面や。
北畠強いなあ。どうやったら北畠止められるんやろ。
あれは絶対全日本入んな」