木曽義仲こと源義仲は、同じ源氏の源頼朝や源義経と比べるとそれほど知られていないかも知れません。
最後には琵琶湖のほとりで討ち死にした彼ですが、義仲こそが紛れもなくあの栄華を誇った平家を京から追放した源氏の武将です。
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木曽義仲はどんな人?
- 出身地:武蔵国(現・埼玉県比企郡嵐山町)
- 生年月日:1154年
- 死亡年月日:1184年1月20日(享年31)
- 木曽から朝日のごとく現れ、平家を京から駆逐しながらも法皇に背かれ、最後は源氏に討たれた源氏の武将
木曽義仲 年表
西暦(年齢)
1154年(1歳)木曽義仲誕生(幼名、駒王丸)
1155年(2歳)父親の源義賢が大蔵合戦で源義平によって討死、義仲は木曽へ逃れる
1180年(27歳)以仁王の令旨が下され、木曽義仲が挙兵
1183年(30歳)
・義仲の嫡男・義高が鎌倉へ送られる
・倶利伽羅峠の戦いのあと義仲軍入洛を果たして平家を京から追放
・水島の戦い
・法住寺合戦、義仲は後白河法皇を幽閉する
1184年(31歳)
・宇治川・瀬田の戦いで源範頼・義経軍に敗れる
・義仲、粟津にて討ち死に
源氏の再興を夢見て散った朝日将軍
木曽義仲は、源氏再興を目指し挙兵しました。
しかし、平家を京から追放した後に彼を待っていたのは、都での冷たい仕打ち、後白河法皇の優柔不断な態度、そして東国の源頼朝からの圧力でした。
最終的に義仲は頼朝が派遣した源範頼・義経軍、つまり源氏に討たれてしまったのです。
託された駒王丸の命
駒王丸(のちの木曽義仲)が2歳のとき、従兄の源義平によって父親・源義賢を殺されます。
駒王丸は父親同様に義平によって命を狙われます。
しかし、義平配下の畠山重能と斎藤実盛によって命を助けられ、
信濃国木曽にいる中原兼遠の元で大切に育てられました。
そして13歳の春に元服し木曽次郎義仲と名乗ったのです。
義仲挙兵と平家追放
源氏の血を自覚していた義仲は1180年の以仁王の令旨に呼応し、平家追討の兵を挙げました。
1181年には信濃国(長野県)横田河原の戦いで大勝。
1183年には越中国(富山県)倶利伽羅峠の戦い、越前国(石川県)篠原の戦いで平家の大軍に連勝。
迫り来る義仲の5万の軍勢に恐れをなした平家一門は、幼い安徳天皇を奉じ、皇室の象徴である三種の神器とともに京を出て西国へ逃れます。
義仲は1183年、京で後白河法皇に拝謁し、平家追放の功績によって朝日将軍の称号を贈られます。
また、京都の守護を命じられて武将として最高の瞬間を迎えました。
法住寺合戦と後白河法皇幽閉
しかし、実は後白河法皇は東国の源頼朝と親密でした。
一方、義仲は京の貴族からは冷たく田舎者扱いされ、自軍の統制を乱します。
法皇に叱責されても饑饉にあえぐ中で荒廃した京の治安回復は思うように進みません。
さらに後継の天皇について口出ししたため、法皇は義仲を遠ざけ、西国の平氏討伐を命じたのです。
しかし、義仲が西国で苦戦している間に法皇と頼朝が結託したことをきっかけに法住寺合戦が勃発。
義仲は後白河法皇を幽閉して政権を手中に収めます。
すると、東国の頼朝が法皇から義仲追討の命を受けて軍を送ってきたのです。
義仲最期
頼朝の軍は、源範頼・義経を大将とする六万騎の大軍。
一方の義仲軍は、少ない兵で平家と頼朝両方を相手にしなければならない窮地に追い込まれました。
今井兼平をはじめとする義仲四天王たちも、範頼・義経の大軍を食い止めることはできません。
宇治川・瀬田の戦いに負け、義仲は兼平や巴ら数人を従えて滋賀県粟津ケ原まで逃れます。
そして今井兼平と2人だけが残ったとき、ついに義仲は討ち取られてしまいました。
直後に兼平も壮絶な自害をし、義仲軍は全滅。
1184年1月、義仲は31歳の短い生涯を閉じたのでした。
恩人・斎藤実盛の死の逸話
義仲が大勝利した倶利伽羅峠の戦いに続いた越前国(石川県)篠原での勝ち戦でのことです。
敵方の平維盛軍の兵が逃げ去る中、一騎だけ踏みとどまった武将がいました。
いくら尋ねても名乗ろうとしない不思議な武将は、手塚太郎光盛と戦って討ち死にしてしまいます。
よく見ればその者は髪を黒く染めた老将でした。
髪を洗えばみるみる白髪が現れてきます。
そして、彼こそが赤ん坊の義仲を木曽へ逃がしてくれた命の恩人、斎藤実盛だったのです。
70歳を過ぎた彼は、老武者と侮られることないよう髪を染めて戦いに臨んでいたのでした。
自分の命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、ひと目もはばからず号泣したということです。
義仲を慕った文豪
あの文豪・芥川龍之介が義仲に非常に心酔していたことをご存知でしょうか?
実は、彼は東京府立第三中学校の在学中、『木曽義仲論』を学友会誌に発表しています。
彼の義仲像は非常に熱く、的確なものでした。
論文の末尾にある義仲の一生を表した部分をご紹介します。
義仲と同じ墓所に葬られることを望んだ松尾芭蕉に続き、文豪・芥川龍之介も、真っ直ぐに生き、子供のように喜怒哀楽を表現する義仲への愛情を惜しまなかった一人でした。
きょうのまとめ
平安末期に朝日が登るが如く登場し、見る間に日本の政界の中心に躍り出たかと思うと、あっという間に消えてしまった木曽義仲。
木曽義仲とは、
① 好機を逃さず果敢に時代に挑戦していった野生の武将
② 人情に厚いながらも、政権の中では理解されなかった悲劇の人
③ 失敗の人生を男らしく生きた人物
でした。
時代の名将たちの成功や名言の中には、現代を生き抜くヒントがあるものです。
木曽義仲の必ずしも成功ではなかった生涯からは、人として生きるべき姿の一つを見ることができそうです。
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彼の歴史は蹉跌*の歴史也。
彼の一代は薄幸の一代也。
然れども 彼の生涯は男らしき生涯也。」
(*蹉跌とはつまずき、失敗のこと)