遣唐使としてのキャリアを持ち、帰国後は橘諸兄政権で権勢をふるった
吉備真備。
ですが、意外と遣唐使時代の吉備真備について知る人は多くないでしょう。
そこで今回は、吉備真備の遣唐使時代にまつわるエピソードについて紹介していきます。
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そもそも遣唐使とは?
遣唐使とは、日本から唐(現在の中国)に派遣された外交使節のことです。
630年から894年までに、15回の派遣が行われました。
第1回の犬上御田鍬や804年の最澄・空海などが有名ですが、
実は藤原宇合や山上憶良といった面々も派遣されています。
唐へ行けば先進的な知識や技術、文化などを学ぶことができました。
遣唐使たちによって、多くの経典が日本にもたらされたことはよく知られています。
ただし、唐に無事到着できる確率は50~75%ほどといわれ、途中で命を落とす可能性はけっこう高かったのです。
遣唐使・吉備真備にまつわるエピソード
そんな命懸けの遣唐使ですが、吉備真備は二度も入唐し、無事帰国を果たしています。
それでは吉備真備と遣唐使のエピソードについて、ご紹介していきますね。
阿倍仲麻呂とは遣唐使の同期
- 717年 1回目の入唐
- 735年 帰国
- 752年 2回目の入唐(遣唐副使)
- 753年 帰国
「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」
の歌で有名な阿倍仲麻呂。
唐で官吏となり、玄宗皇帝(唐の第6代皇帝。開元の治を行うも、晩年は楊貴妃が原因で安史の乱を招きました。)に重用された人物です。
吉備真備は阿倍仲麻呂と同じ年(717年)に入唐しました。
他にも、のちに橘諸兄政権でともに重用されることになる玄昉も一緒でした。
分かれた二人の運命
さて、吉備真備は第1回目の入唐から18年後に帰国します。
吉備真備は唐で、儒学や兵学、天文学などを学んでいました。
一方、役人として玄宗皇帝の信を得ていた阿倍仲麻呂は帰国を許されませんでした。
それから17年後、吉備真備は再び入唐して阿倍仲麻呂と再会。
その翌年にはともに帰国の途に就くのですが、乗っていた船は別々でした。
吉備真備の乗っていた船は屋久島に漂着(このとき、吉備真備とは別の船も屋久島に漂着しています。そちらに乗っていたのが唐の僧・鑑真でした。)したものの、なんとか無事に帰朝します。
一方、阿倍仲麻呂の乗っていた船はベトナムに漂着。
結局再び唐に戻り、仲麻呂は二度と日本の土を踏むことなく、現地で亡くなりました。
『吉備大臣入唐絵巻』になぜか阿倍仲麻呂の亡霊
ということで、吉備真備が唐にいる頃、阿倍仲麻呂はまだ生きていたのです。
ですが後世つくられた『吉備大臣入唐絵巻』では、遣唐使時代の吉備真備が阿倍仲麻呂の亡霊に助けられ、
様々な障害を乗り越えるというハチャメチャなストーリーが展開されています。
囲碁を日本に伝えた?ずる過ぎるエピソード
囲碁を日本に伝えたのは吉備真備、といわれることがあります。
しかし実際には吉備真備の帰国前から、日本で囲碁は打たれていたと考えられています。
ですが前述の『吉備大臣入唐絵巻』には、こんな話が描かれています。
皇帝の前で、唐の囲碁名人と対決することになってしまった初心者・吉備真備。
ところが、相手の碁石を飲むことで勝利を得ます。
名人は下剤を飲ませて碁石を出そうとしますが、真備は「術」を使って碁石をお腹に留めたそうです。
吉備真備、ずる過ぎる!と言いたいところですが、この伝説のおかげもあってか、
吉備真備は日本における囲碁の祖となったようです。
なお、初心者の吉備真備に囲碁のルールを教えてくれたのも、もちろん阿倍仲麻呂の亡霊です。
きょうのまとめ
今回は遣唐使時代の吉備真備のエピソードについて、簡単にご紹介しました。
② 1回目にともに入唐した阿倍仲麻呂は帰国できず、唐で生涯を閉じた
③ 吉備真備は日本の囲碁の祖とされることがある
こちらのサイトでは他にも、吉備真備にまつわる記事をわかりやすく書いています。
より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。
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