勝海舟は
「幕末の三舟」の一人とされ、現在でも尊敬され続けている人物です。
江戸城無血開城などの偉業を成し遂げた人物ですが、意外と奥さんには迷惑をかけていたようです。
なるほど、仕事と家庭は別問題ですからね。
そこで今回は勝海舟の家族のほか、先祖・子孫について簡単にご紹介したいと思います。
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勝海舟の家系図
勝海舟の家系図です。
太字は、本文に登場する人物です。
勝海舟の家族、先祖、子孫
曽祖父は一代で貧農から巨万の富を築いた
勝海舟の曽祖父は、米山検校と呼ばれる人物です。
米山検校は、越後国(現在の新潟県)の貧しい農家の子として生まれました。
生まれつき目が見えなかったとも言われています。
ですが、江戸に出て鍼医(はり治療の医者のこと)や金貸しを営み、
莫大な富を築きました。
そして儲けたお金で、旗本(将軍家直属の家臣の身分のひとつ)の株を買います。
「検校」とは視覚障害者の最上級の官命のことです。
何もないところから身を立てたところなど、さすが勝海舟の先祖といった感じですよね。
自由奔放すぎる父・小吉
海舟の父親は、そんな米山検校の三男・平蔵の子ども・小吉という人物でした。
7歳の頃、旗本であった勝家の養子に入りました。
この父親が、とんでもなく自由奔放な人物だったのです。
小吉は幼いころから喧嘩ばかりしていたそうです。
剣の腕前は素晴らしかったのですが、どうしようもない人間だったといいます。
14歳になった小吉は上方(京都やその近くのこと)を目指して江戸を出奔(行方をくらますこと)します。
上方へ行く理由は、特になかったそうです。
しかし途中で知り合った男たちに騙されて、小吉は無一文となってしまいます。
ですが小吉は江戸へは戻らず、そのまま柄杓1本を持って「抜け参り」に行きます。
抜け参りとは家を抜け出して伊勢神宮へと参拝することです。
江戸時代に何度か大流行したことでも知られています。
柄杓はお伊勢参りへ行くことを表していました。
それさえ持っていればボランティアの方が何とかしてくれたため、お金がなくても伊勢へ行くことができたのです。
道中、小吉は
「江戸品川宿の青物屋大坂屋から来た」
と言えば泊めてくれる家があるという噂を聞きつけます。
その家を訪れてもてなしを受けた小吉は、ついでにお金まで借りてきたという強者です。
個人的には、とても好きな人物です。
興味を持たれた方は、ぜひ小吉の自伝『夢酔独言』を読んでみてください。
数々の小吉の武勇伝が書かれていますよ!
海舟と同じ墓に入ることを拒んだ正妻・民子
実は勝海舟の奥さんは、一人ではありませんでした。
民子(たみこ)という正妻のほか、
梶玖磨・増田糸・小西かね・清水とよという女性も海舟の子を産んでいます。
その中でも、糸とかねという女性は勝家の使用人という立場でもありました。
正妻である民子は、夫の子を産んだ女性と同居することを強いられることになってしまったのでした。
民子は温厚な性格で知られています。
嫁いだときにはまだ貧しかった海舟を、民子しっかりと支えました。
まさに糟糠の妻ですね。
そんな民子でも、さすがにそういった女性たちと同居させられたことが許せなかったのか、
勝海舟と同じお墓に入ることを拒否したそうです。
しかし民子の死から10年後、東京の洗足池公園にある海舟のお墓の隣に、民子のお墓も移されたようです。
もうそろそろ許してくれていると良いですよね、民子さん。
勝海舟の子孫
ということで、海舟の子どもは9人いました。
そのうちの一人、三女の逸子は、現在の専修大学の創立者としても知られている目賀田種太郎に嫁ぎました。
その系譜の子孫に、現在はフリーライターとして活躍されている方がいらっしゃいます。
高山みな子さんという方なのですが、
勝海舟の玄孫に当たるそうです。
きょうのまとめ
今回は、勝海舟の先祖・家族・子孫について簡単にご紹介しました。
勝海舟の
② 父・小吉は自由奔放な生き方をした人物だった
③ 正妻・民子さんは、海舟と同じお墓に入ることを拒否していた
④ 子孫には、現在フリーライターとして活躍している高山みな子さんがいる
ということです。
偉人のプライベートを知るのも、なかなか面白いですよね。
勝海舟に興味を持たれた方は、
他にも記事を書いていますので是非そちらもご覧ください!
勝海舟の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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