加藤清正は、
豊臣秀吉の家臣で「賤ヶ岳の7本槍」の1人と言われたほどの武将でした。
豊臣秀吉がなくなると、加藤清正は徳川家康に近づきます。
そんな加藤清正はこの「関ヶ原の戦い」を前にある失敗をします。
これは徳川家康を激怒させるもので、「関ヶ原の戦い」に参戦させてもらえませんでした。
家康に近づきたいという思惑を持つ清正には大誤算となったのです。
さて加藤清正はいったい何をやらかしてしまったんでしょうか。
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なぜ関ヶ原の戦いに参戦できなかったのか
加藤清正は、なぜ関ヶ原の戦いに参戦できなかったのでしょうか?
まずは、そのきっかけとなった島津藩の内乱についてみていきましょう。
庄内(しょうない)の乱
「庄内の乱」は1599年に日向国庄内(現在の宮崎県都城市あたり)で島津藩とその重臣の伊集院氏との間で起こりました。
島津藩にとっての最大の内乱であり、関ヶ原の戦いの直前の騒動だったのです。
島津家の重臣、伊集院忠棟は島津義久の筆頭家老であり、
豊臣秀吉に都城8万石を与えられ、検地後の知行配分を任されていました。
島津家中ではそんな忠棟に不満が募っていきました。
また伊集院忠棟に謀反の疑いありという噂もたちました。
そんな中、島津忠恒は忠棟を殺したのでした。
島津忠恒は「鬼島津」と呼ばれた島津義弘の三男で、当主義久に男子がいなかったことから義久の三女と結婚し、その後継者となった人です。
この事件は島津忠恒の独断で行われたということになっていますが、
義久や義弘が関わったという資料が後年になって見つかっています。
殺された伊集院忠棟の嫡男・伊集院忠真は、
主家の島津家に対して叛旗を翻すことを決めます。
この島津家の内乱に加藤清正がなんの関係があるのだろうと思うかもしれませんが、
彼は大いにこの内乱に絡んでいたのです。
加藤清正の失敗
実は清正はこの内乱に思いきり関わっていました。
伊集院忠真に裏で助成していたのです。
清正は表立って兵力などの加勢はしていませんが、物資の援助をしていました。
これは家康を怒らせるのに十分でした。
家康は五大老としてこの争いの収拾を図っていたのに、清正がかき混ぜてしまったのです。
清正は家康に平謝りしますが家康の怒りはなかなかとけません。
ですからあの大事な関ヶ原の戦いの時、
清正は自分の領地に謹慎させられていたのです、
清正の汚名返上
そんな加藤清正に家康を裏切り、西軍につくようにと根回しをして来る毛利輝元らもいました。
しかし清正はそれを受け付けず、
九州にいた黒田如水と連絡を取り合い西軍に着く大名を立て続けに攻め、
関ヶ原にはいなかったものの九州でしっかり役目を果たしました。
その甲斐あってか、家康の怒りは収まり所領も増加されたのです。
きょうのまとめ
この庄内の乱は、伊集院忠真も殺されて伊集院家が滅亡する結果となりました。
家康に近づきたい一心の加藤清正でしたが、思わぬところで躓いてしまいました。
それでもその後、清正の東軍としての働きが家康に認められたということですね。
ただ加藤清正としては、
関ヶ原の戦場で思い切りいいところを見せたかったことでしょう。
加藤清正、大失態に後悔しつつ、なんとかクリアした一件でした。
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