鳴くよ(794)ウグイス平安京。
学生時代、歴史が苦手だった方でも、この語呂合わせは覚えているのではないでしょうか。
都は794年、桓武天皇によって平安京に遷されました。
ですがなぜ、わざわざ都を変える必要があったのでしょうか。
今回は桓武天皇が平安京に遷都した理由について、紹介していきます。
桓武天皇は二度遷都していた
桓武天皇は仏教の力が強い平城京から離れ、天皇の権力を強化したいと考えました。
そこで水陸交通の便が良く、桓武天皇の母方・渡来系氏族と関係の深い場所に遷都することにしたのです。
飛鳥
難波宮(645/孝徳)
飛鳥(654)
大津宮(667/天智)
飛鳥浄御原宮(672/天武)
藤原京(694/持統)
平城京(710/元明)
恭仁京(740/聖武)
難波宮(744/聖武)
紫香楽宮(744/聖武)
平城京(745/聖武)
長岡京(784/桓武)
平安京(794/桓武)
福原京(1180/平清盛)
平安京(1180)
長岡京
そこで、まず遷都したのは長岡京(現在の京都府向日市・長岡京市あたり)です。
784年、藤原種継(※1)が造長岡宮使に任命され、造営が進められていました。
しかし種継が現地での監督中、射殺されるという事件が起こりました。
藤原種継暗殺事件に関わったとして捕らえられたのは、桓武天皇の弟・早良親王でした。
実際に早良親王が事件に関わっていたかは不明です。
しかし早良親王は皇太子を廃され、淡路へ配流となりましたが途中で死去。
実はこれが、平安京への再遷都の理由となったのです。
平安京
早良親王の死後、桓武天皇の周囲には不幸な出来事が立て続けに起こります。
・皇太子が病に侵される
・飢饉や疫病が流行
・河川の氾濫が相次ぐ
という有様でした。
これらはすべて早良親王の祟りである、と考えた桓武天皇。
桓武天皇は祟道天皇という尊号を贈って鎮めるほど、早良親王の霊を恐れていました。
親王の怨霊の残る長岡京に、そのまま都を置き続けるわけにはいきませんよね。
そこで和気清麻呂が平安京への遷都を建言。
「平らで安らか」と名付けられた場所は、その後およそ千年間、
日本の都であり続けた(※2)のでした。
きょうのまとめ
今回は桓武天皇が平安京に遷都した理由について、簡単に紹介しました。
② 早良親王の怨霊を恐れ、長岡京から平安京へ再遷都した
③ その後平安京はおよそ千年間、日本の都であり続けた
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より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。
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