泉鏡花とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

明治~昭和初期の時代に活躍した作家

泉鏡花いずみきょうか

その作風はファンタジー小説の走りといわれ、架空の存在を描いた斬新な世界観が大いに注目を集めました。

そんな時代を先取りした泉鏡花の作風は、いかにして作られていったのか。

鏡花はいったいどんな人物だったのか。

今回はその生涯を通して、人物像を辿っていきましょう!

 

泉鏡花はどんな人?

プロフィール
泉鏡花

泉鏡花
出典:Wikipedia

  • 出身地:石川県金沢市下新町
  • 生年月日:1873年11月4日
  • 死亡年月日:1939年9月7日(享年 65歳)
  • 明治から昭和期に活躍した作家。架空の存在を取り扱った幻想小説を作風とし、現代に続くファンタジー小説の基盤を築いた。

 

泉鏡花 年表

年表

西暦(年齢)

1873年(1歳)石川県金沢市下新町にて、彫金職人の泉清次、母・鈴の長男として生まれる。

1883年(9歳)母・鈴が次女やゑを出産後、産褥熱さんじょくねつで他界。強い衝撃を受ける。

1887年(13歳)北陸英和学校で英語を勉強していたものの退学。私塾で英語を教えるようになる。

1889年(16歳)友人の下宿で尾崎紅葉おざきこうようの『二人比丘尼 色懺悔ににんびくにいろざんげ』を読み衝撃を受ける。同年、紅葉の弟子になるべく上京。

1891年(17歳)尾崎紅葉の自宅を訪ね、弟子入りを許される。以降、原稿整理や雑用を通して信用を得ていく。

1893年(20歳)京都日出新聞にて、処女作『冠弥左衛門かんむりやざえもん』を連載する。同年『活人形』『金時計』などの作品も発表。

1894年(21歳)父・清次が亡くなったことで生活が困窮。『予備兵』『義血狭血ぎけつきょうけつ』などの連載、実用書の編集などで家計を支える。

1895年(22歳)『夜行巡査』『外科室』が注目を浴び、文壇での地位を確立する。

1896年(23歳)『海城発電』『琵琶伝』『化銀杏』『照葉狂言てりはきょうげん』を発表。東京に家をもち、故郷の祖母を呼び寄せる。

1897~1901年(24~29歳)『化鳥』『辰巳巷談こうだん』『湯島もうで』『高野聖こうやひじり』など、毎年数多くの作品を刊行。文学結社「硯友社けんゆうかい」の新年会で伊藤すずと出会い、交際が始まる。

1902年(30歳)胃腸病を患い、逗子にて静養。

1903年(31歳)伊藤すずとの同棲が始まるが、尾崎紅葉の叱責により別れる。同年紅葉が他界。

1905年(33歳)胃腸病が再び悪化したため、逗子に転居する。『銀短冊』『瓔珞品ようらくひん』を発表。

1906~1924年(34~52歳)婦系図おんなけいず』『草迷宮』『白鷺』『歌行灯』『夜叉ヶ池』『海神別荘』『由縁の女』『婦人画報』など、多くの作品を世に送り出す。1910年以降は東京市麹町を住まいとする。

1925年(53歳)『鏡花全集』が刊行される。27年の交際を経て伊藤すずと入籍。

1927年(55歳)東京日日新聞、大阪日日新聞の招待で青森・秋田を旅行する。鏡花を囲む「九九九会くくくかい」が結成される。

1930~1936年(57~62歳)『木の子説法』『貝の穴に河童の居る事』『菊あはせ』『斧琴菊』『お忍び』などを発表。

1937年(63歳)『薄紅梅』『雪柳』を発表。帝国芸術院会員になる。

1939年(65歳)縷高新草るこうしんそう』を発表。9月7日、癌性入腫瘍により他界する。

 

泉鏡花の生涯

1873年、石川県金沢市下新町にて泉鏡花は誕生しました。

本名は泉鏡太郎といいます。

父の泉清次は彫金といって、金属で細かい細工を作る、現代でいうアクセサリー職人。

母の鈴は加賀藩のお抱え能楽者の末娘という、芸術家肌な家系に生まれています。

しかし母親の鈴は鏡花が9歳のころ、次女のやゑを出産すると、産後の産褥熱さんじょくねつで他界。

(※産褥熱…産後に高熱が続く症状のこと)

この出来事は幼心に鏡花に大きな衝撃を与え、終生の作品に強く影響しているといわれます。

少年期の泉鏡花

少年期の鏡花は、キリスト教プロテスタント系の北陸英和学校で英語を学んでいましたが、将来の行方についてはなんだか定まらない感じ。

北陸英和学校も1年あまりで退学してしまいます。

この退学はそもそも金沢専門学校(現・金沢大学)へ進学するためのものです。

しかし結局、大学受験についても鏡花は早々にやる気をなくしており、何を志すでもなく私塾にてなんとなく英語講師を続けている状況に陥ります。

やりたいことがなかなか見つからず、とりあえず一般的に良しとされる学校へ進学してみるものの、「これじゃない感」が付きまとう。

学生時代の鏡花はそんなモヤモヤした感覚のなか、自分のなかで「これだ!」と思えるものに出会えるときを待ち望んでいたのでしょう。

学生時代って多くの人がそんなものですし、場合によっては就職してから本当のやりたいことが見つかる人だっています。

鏡花も悩みは私たちとなんら変わらないのですね。

『二人比丘尼 色懺悔』に衝撃を受け著者の尾崎紅葉に弟子入り

そんな鏡花が転機を迎えるのは、16歳のころ。

友人の下宿で読んだ尾崎紅葉おざきこうようの『二人比丘尼 色懺悔ににんびくにいろざんげに衝撃を受け、小説家になりたいと強く思うのです。

『二人比丘尼 色懺悔』は尾崎紅葉の出世作となった、ふたりの若い尼僧の悲恋の物語。

同じ男性を愛し、その恋が実らなかったため尼となって世を捨てたふたりの会話を軸に展開されていく作品です。

当時、政治思想が強く反映されていた文壇において、人の純粋な気持ちに着目したこの作品はいかにも革新的で、多くの読者を感動させました。

鏡花も気持ちを動かされたうちのひとりだったというわけですね。

思い立ったが吉日で、鏡花はこの年に紅葉の弟子となるべく上京。

行動的だな…とも思わされますが、勢い余って上京したものの、鏡花はなんの縁もない紅葉に会う勇気が出ず、1年あまりは友人の下宿を頼りつつ二の足を踏んでいたといいます。

こういう部分を見るとやはり鏡花は天才ではなく、もとはいたって一般人的だったのだなと感じさせられますね。

そして1891年のこと、意を決した鏡花はついに紅葉の自宅を訪ね、弟子入りを志願。

紅葉もこれを快く受け入れ、以降身の回りの世話や原稿整理を経て、鏡花は師匠の信頼を勝ち得ていきました。

実家の生活苦をきっかけに一念発起?『夜行巡査』『外科室』で文壇の地位を確立

晴れて憧れの紅葉の弟子となれた鏡花ですが、作家への道は順風満帆とはいきません。

1893年には京都日出新聞にて処女作冠弥左衛門かんむりやざえもんを発表しますが、実はこの作品が不評で、初連載から間もなく、あわや連載打ち切りの状況に追い込まれます。

しかし、師匠の紅葉も鏡花をよほど可愛がっていたのでしょう、紅葉が新聞社とのあいだを直接取り持ったことで、無事完結までこぎつける形に。

このほか、同年に『活人形』『金時計』などいくつか作品を発表していますが、どれもさして話題にはならず。

鏡花は紅葉の弟子という後ろ盾をもちながら、鳴かず飛ばずの苦しい下積みを強いられることになります。

この状況を変えたのは、鏡花の実家の財政難でした。

紅葉に弟子入りした翌年のこと、鏡花の実家は火事で全焼

さらに1894年に父・清次が他界し、泉家は稼ぎ頭を失ってしまうことになるのです。

これを受けた鏡花は実用書の編集などに携わる形で実家の生計を支えつつ、自身の文筆業でこの苦境を乗り越えねばと奮起します。

すると1895年に発表した『夜行巡査』が、評論家の田岡嶺雲たおかれいうんから称賛され、同年発表の『外科室』が雑誌『文芸倶楽部』の巻頭を飾る大抜擢を受けることに。

この二作の注目を経て、鏡花は一気に有名小説家の仲間入りを果たすのです。

まさにピンチをチャンスに変えたという感じですね。

ここから晩年、1938年に体調を崩すまでは、作品を出さなかった年はないといいますから、多作も多作。

1937年にはその功績が称えられ、芸術家に対する文化庁の栄誉機関である帝国芸術院の会員にも任ぜられています。

代表作『高野聖』から始まった泉鏡花作品の世界観

鏡花の作風は、現代でいうファンタジー小説に分類され、実在しない空想上のものを題材としていることが特徴とされています。

当時は島崎藤村の『破戒』など、実話をベースに作られた作品が市場を占めており、鏡花の手法は極めて斬新なものとして注目を集めました。

その走りとなった作品が、1900年に発表された高野聖こうやひじり

高野山の僧が、旅の道連れとなった若者に自分が体験した奇妙な体験を語る怪談となっています。

ファンタジーというといかにも西洋的な印象を覚えますが、鏡花が影響を受けたのは江戸時代の妖怪の伝承など。

昔からなじみのある文化とはいえ、当時の小説にそういったものを描く作家はあまりいなかったようですね。

伊藤すずとの交際と、師・尾崎紅葉の死

鏡花は27歳のころ、その後生涯の伴侶となる伊藤すずと出会っています。

すずは尾崎紅葉・山田美妙やまだびみょう石橋思案いしばししあんらによる文学結社「硯友会けんゆうかい」に参加した芸者でした。

1900年ごろからふたりは同棲を始めますが、1903年にそのことを知った紅葉は鏡花を激しく叱責。

一旦はすずと別れることになってしまいます。

「諸先輩方がひいきにしている芸者に手を出すとは何事か!」みたいな?

それとも「お前は女にうつつを抜かしている暇などないだろう!」という感じだったのか…?

この経験は1907年発表の婦系図おんなけいずの題材にもなりました。

しかしなんと、紅葉は鏡花とすずを別れさせた同年、胃がんで他界。

このことで鏡花とすずの関係は続いていくことになりますが、終生紅葉を慕っていた鏡花としてはなんとも複雑な心境です…。

紅葉は病床まで原稿を持ち込み、最期を迎えるそのときまで執筆と向き合っていたといい、その姿勢に鏡花も敬意を払っています。

鏡花が晩年まで執筆を休まなかったのも、そんな師匠の背中を見て育ったがゆえなのかも。

このあと、すずとは27年の交際の末、52歳にして入籍。

出会ってから結婚までの長さにまた驚かされます。

20代後半に有名作家の仲間入りを果たしていたとはいえ、当時の鏡花は生活の苦しさも語っており、なかなか結婚には踏み出せない状況だったのではないでしょうか。

 

泉鏡花の変人エピソード

泉鏡花は、その斬新な作風の源泉ともいえる風変わりなエピソードをたくさんもっています。

そんな鏡花の変人エピソードにも、ここで触れておきましょう。

行き過ぎた潔癖症

鏡花は一度赤痢を患った経験から、ばい菌には異常に敏感で、行き過ぎた潔癖症だったことがよく知られています。

どのぐらい行き過ぎていたかというと…

・アルコールランプを常備し、食べものはなんでも火であぶってから食べる

・階段の掃除に際し、場所によって汚れ方が違うという理由で「上段・中段・下段」用の雑巾を用意していた

・熱燗を飲む際にはグツグツと煮立つレベルまで加熱する。この飲み方は周囲から「鏡花燗」と呼ばれていた

・腐るという字を嫌い「豆腐」を「豆府」と書いていた

・自宅の食器棚が取り外せるようになっており、ネズミや虫が寄り付かないよう、タンスにしまって管理していた

などなど。

特に食べものを火であぶる癖に関しては生ものに限らず、あんぱんをあぶって食べていたという逸話まであります。

あんぱんを指でつまむと、グルっと一周火であぶって食べる。

しかし指でつまんだ部分にはばい菌がついているかもしれないので、食べずに捨てる。

…明らかにやりすぎです。

常人には理解できない文字へのこだわり

鏡花は文字にはいわゆる言霊が宿っていると考えており、書き損じなどがあれば、原稿に塩を振ってお清めをする習慣がありました。

…妖怪などを多く作品にしていたのも、そういった霊的な感覚があったから?

また佐藤春夫が鏡花を訪ねていったときには、会話のなかで畳に指で文字を書いてみせたところ

鏡花
文字を人が踏む畳に書くとは何事か!

と怒り出したエピソードも。

なんかめんどくさい人ですね…。

しかしそんな文字へのこだわりのゆえか、鏡花の作品を読んでいると、これも常人には思いつかないような美しい表現が随所にされています。

「呂」という漢字を「キス」と読ませたり、「二人」と書いて「きしむかい」と読ませたり。

前述の豆腐のくだりにしても、「豆府」と書いたのは府という字に「おさまるところ」という意味があるという理由もあります。

たとえば政府は政治のおさまるところ、京都府は京の都がおさまるところ。

いわれてみれば豆腐にも、豆がギュッとおさまっています。

そういったオシャレな表現が堪能できるところもまた、鏡花の作品の醍醐味です。

 

きょうのまとめ

師・尾崎紅葉の作品に感銘を受け、小説家を志した泉鏡花。

その下積み時代には多分の苦労もあったようですが、鏡花は実家の危機的状況などをバネに才能を開花させ、独自の幻想小説の世界観を築いていきました。

最後に今回のまとめです。

① 泉鏡花は尾崎紅葉の出世作『二人比丘尼 色懺悔』に感動し、紅葉の弟子になるべく上京した。しかし東京に来たものの1年は勇気が出ず二の足を踏んでいたという、一般人的な一面も。

② 火事や大黒柱である父の死など、実家の財政難に際し、才能を発揮。『夜行巡査』『外科室』で注目され、有名作家の仲間入りを果たす。以降、晩年の1937年まで作品を出さない年はなかった。

③ 20代後半で出会った生涯の伴侶・伊藤すずとの関係は、師匠の紅葉から反対されていた。しかし同年紅葉が亡くなり、関係は続いていった。この逸話は小説『婦系図』の題材にもなっている。

昨今のアニメのトレンドである異世界転生もののライトノベルも、もとを辿れば泉鏡花に行き着きます。

こう考えるとやはり、その功績は計り知れませんね。

 

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