岩倉具視使節団の目的は不平等条約の改正だった

 

岩倉具視(いわくら・ともみ)は明治4年(1871年)、遣外使節団の大使となって欧米を歴訪しました。

期間は1年9カ月、訪れた国の数は12カ国に上ります。

岩倉具視使節団とも言われる彼らは、何のために諸外国へ赴(おもむ)いたのでしょうか。

今回は岩倉具視使節団が欧米を渡り歩いた理由などについて、簡単にご紹介します。

 

目的は不平等条約の改正などを行うため

岩倉具視たちは幕末に結ばれた不平等条約改正などのため、1871年11月12日、横浜港を出発しました。

不平等条約とは、条約を締結した国同士が対等でない条約のことです。

幕末、日本は不平等条約を5カ国と結んでしまった

日本は1854年に結んだ日米和親条約で、一方的にアメリカに対して最も有利な取り扱いをする「 最恵国待遇 」などを認めてしまいます。

さらに1858年に結んだ日米修好通商条約では、アメリカ人が犯した犯罪はアメリカ領事が裁くという「 領事裁判権 」を認めます。

同時に関税は日米両国の協議によって行うとし、「 関税自主権 」を失いました。

領事: 外国で自分の国の通商を促進したり、自国の人が必要としている援助などを行う役職のこと。

これらと同様の条約を、幕府はアメリカだけでなく、オランダ・イギリス・ロシア・フランスとも結んでいたのでした。

そこで不平等条約改正のための予備交渉を行うために、使節団が派遣されることになりました。

この他にも、西洋の制度や文物を視察するという目的もありました。

留守を任せて欧米へ

大使は岩倉具視、副使は大久保利通・木戸孝允・伊藤博文・山口尚芳(なおよし)、他にも明治政府の首脳や中堅から若手官僚までが参加しました。

このとき岩倉具視使節団に随行(ずいこう)した人物として有名なのは、女子英学塾(現在の津田塾大学)を設立した津田梅子です。

出国した当時、梅子はまだ8歳だったといいます。

また、彼らが日本にいないとき、政府の留守を守っていたのが三条実美(さねとみ)・西郷隆盛・板垣退助たちでした。

欧米を外遊して帰国した岩倉具視らと留守政府を守った彼らの間に、のちに思わぬ対立が起こることになります。

詳しくは記事の後半でご紹介しますね。

条約の改正は失敗に終わる

せっかく外国へと行ったものの、当時の日本にはまだ近代国家に必要な制度が整っていないとの理由から、うまく行きませんでした。

岩倉具視使節団は明治6年(1873年)9月に帰国することになります。

当時、岩倉らへの風当たりは強かったそうです。

ですが、彼らが欧米各国で議会や病院、学校など近代的な施設の視察を行い、西洋の文化に直接触れたことは、日本の近代化に大きく貢献することになります。

 

征韓論で対立する

岩倉具視使節団が帰国すると、留守を預かっていた西郷隆盛や板垣退助らが「 征韓論 」を主張していました。

征韓論とは簡単に言うと、武力を使ってでも朝鮮半島を開国させようとする考え方です。

しかし、これに使節団に参加していた大久保利通や木戸孝允たちは反対します。

というのも、今は国内改革を優先すべきだと考えていたからです。

日本の近代化が遅れているとの理由で欧米諸国から条約の改正を拒まれた彼らですから、外国への進出は二の次だということだったのでしょう。

この問題で政府は分裂し、結局は征韓論を唱えた西郷たちが敗れました。

それ以降、大久保利通が政権を指導していくこととなります。

 

きょうのまとめ

今回は岩倉具視使節団についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

岩倉具視使節団は、

① 目的のひとつは不平等条約改正のための予備交渉を行うためだった

② 当時の日本は近代的な制度が整っていなかったため、交渉は失敗した

③ 実際に西洋の文明に触れたことは、日本の近代化に大きく役立った

④ 征韓論争を引き起こした

といえます。

こちらのサイトでは、他にも岩倉具視や幕末・明治にかけての記事などもたくさん書いています。

できるだけ簡単に、わかりやすくまとめていますので、ぜひご覧になってくださいね。

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