犬養毅とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

「五・一五事件」で襲撃された首相として、歴史の授業でも取り上げられている

犬養毅いぬかいつよし

首相が暗殺されるなんて大事件が起きれば、そりゃあ歴代でも有名になりますよね。

でも、この犬養毅がどんな政治家だったのかは、詳しく知らない人も多いのでは?

国民主導の政治を実現させたすごい人なんですよ!

どうしてそんな人が恨みを買うことになってしまったの?というのも気になるところ。

犬養毅とはいったいどんな人物なのか、その生涯から辿っていきましょう。

 

犬養毅はどんな人?

プロフィール
犬養毅いぬかいつよし

礼装である大礼服を着用した犬養
出典:

  • 出身地:備中国賀陽郡びっちゅうのくにがようぐん庭瀬村川入(現・岡山県岡山市)
  • 生年月日:1855年6月4日
  • 死亡年月日:1932年5月15日(享年76歳)
  • 護憲運動を起こし、国民主導の政治を実現した内閣総理大臣。陸海軍・青年将校による「五・一五事件」で悲劇の死を遂げた。

 

犬養毅 年表

年表

西暦(年齢)

1855年(1歳)備中国賀陽郡びっちゅうのくにがようぐん庭瀬村にて、首長を務めていた父・犬養源左衛門の次男として生まれる。

1876年(21歳)上京し、慶應義塾に入学。このほか漢学塾・二松學舎にも通い漢学を修める。

1877年(22歳)『郵便報知新聞』の記者として西南戦争を取材。

1882年(27歳)総務省統計院を経て、大隈重信の立憲改進党に入党。大同団結運動などに尽力。

1890年(35歳)第一回衆議院議員総選挙にて当選。中国進歩党、憲政本党などの政党結成に尽力。

1898年(43歳)第一次大隈内閣にて文部大臣を務めるも、板垣退助らの反対を受けて総辞職。

1911年(56歳)辛亥革命に際し、のちに臨時大統領となる孫文を匿うなど、中華民国の成立に貢献。

1913年(58歳)立憲政友会の尾崎行雄と協力し内閣不信任案を提示。第三次桂内閣を総辞職に追い込む(第一次護憲運動)。

1923年(68歳)第二次山本内閣にて、文部大臣、逓信ていしん大臣を兼任。

1924年(69歳)立憲政友会、憲政会、革新倶楽部により、護憲三派を結成。第二次護憲運動を経て清浦内閣を倒閣する。これにより成立した加藤内閣にて逓信大臣を務める。

1929年(74歳)大政党、立憲政友会にて総裁となる。

1931年(76歳)満州事変の影響で第二次若槻内閣が総辞職。犬養内閣が成立。

1932年(76歳)政府に不満を覚えた陸海軍青年将校の襲撃に遭い、暗殺される(五・一五事件)。

 

青年期

1855年、犬養毅は備中国賀陽郡びっちゅうのくにがようぐん庭瀬村にて、犬養源左衛門の次男として生まれます。

犬養家は農民から武士に引き立てられた家系で、源左衛門も庭瀬村の首長を務めるほどの出世を果たしていました。

しかし犬養がまだ幼いころに亡くなってしまったため、以降、家計の維持には苦労したという話です。

犬養は優秀な青年でしたが、こういった事情からヨーロッパ留学を諦め、慶應義塾への進学を決めたという背景があります。

慶應義塾にて学ぶ

1876年、犬養は21歳のころ、福沢諭吉の主宰する「慶應義塾」に入学します。

犬養の優秀さは福沢も認めるところだったという話。

しかし実は卒業を待つことなく、慶應義塾を中退しているんですよね。

犬養は在学中、入学の保証人になってくれた藤田茂吉の紹介でアルバイトとして『郵便報知新聞』の記者をしていました。

それが西南戦争の取材をしたことをきっかけに人気に火が付き、慶應義塾を中退して自ら『東海経済新聞』を刊行するようになるのです。

ただ、中退後も福沢との関係は続いており、犬養はこのあと、福沢の仲介で総務省統計院へ入り、政局に関わっていくようになります。

漢学に傾倒

犬養は幼少より勉学に励み、漢学には特に傾倒していたといいます。

慶應義塾に通いながらも、漢学塾・二松學舎にて学ぶなどの努力も惜しみませんでした。

政界入りを果たしてからはその素養を活かし、中国の政治家などと親交を深め、アジア主義者として世界的に注目されるほどになります。

実は犬養のこういった漢学や中国への理解が、晩年彼が首相に就任するきっかけともなるのです。

 

護憲運動

1882年、犬養は総務省統計院を経て、大隈重信の立憲改進党に入党。

当時は旧薩摩藩、長州藩出身の薩長閥が政界を牛耳っていました。

そこから国民主導の政治に切り替えようと立ち上がったのが、この改進党や自由党などの政党です。

一度はこれらの政党による自由民権運動も失速していましたが、このころは再び運動が活発になってきていました。

1890年に帝国議会が開設されることとなり、これを機会に政党が結束して薩長閥から政権を奪取しようという運びになっていたのです。

これを大同団結運動といい、犬養も帝国議会で議席を獲得するための尽力をしています。

結果、獲得できた議席はわずかなものだったのですが、その勢いは以後、犬養の主導する護憲運動が盛り上がっていくきっかけとなるのです。

(※護憲運動…国民を主導の政治を擁護する運動)

ちなみに犬養は帝国議会の開設に伴い、第一回衆議院議員総選挙にて当選。

以後、18回連続当選、42年に渡って議員を務めるという歴代2番目の記録を打ち立てています。

第一次護憲運動

1913年、西園寺公望さいおんじきんもち内閣の総辞職により、新たに桂太郎内閣が発足します。

これを受けて犬養が起こしたのが「第一次護憲運動」です。

国民主導が叫ばれるなか、長州閥の桂が首相に選ばれるのは3回目のこと。

政府上層部の結託があるとし、立憲国民党の犬養、立憲政友会の尾崎行雄が協力して不信任案を提示したのです。

桂は不信任案に対抗するべく、議会の停止や衆議院の早期解散を企てます。

しかしこの行動は国民の怒りを買うこととなり、国会議事堂に民衆が押し寄せる騒動にまで発展。

こうして桂内閣は総辞職に追い込まれます。

結局、後任の首相は薩摩閥の山本権兵衛となったため、犬養らの政党政治は実現にはいたりませんでした。

ただこのときの活躍から、犬養と尾崎行雄は「憲政の神様」と称されるようになっています。

第二次護憲運動

第二次護憲運動が行われたのは、1924年のこと。

この年、山本内閣が総辞職となり、後任を任されたのが枢密院議長の清浦奎吾きようらけいごでした。

清浦は組閣に伴い、旧来から政府を牛耳っていた貴族院議員ばかりを要職に任命、さらに自身が所属していた研究会からの人選など、えこひいきの人事を敢行したのです。

これを問題視した

・憲政会
・立憲政友会
・革新倶楽部

という3党が結束し、護憲三派を結成します。

このとき、革新倶楽部を率いていたのが犬養でした。

護憲三派は演説などの護憲運動を展開し、第15回衆議院議員総選挙にて286名の議席を獲得。

清浦内閣の倒閣に成功するのです。

これによって誕生したのが加藤高明内閣で、犬養は逓信ていしん大臣を務めます。

こうして国民主導の政治が復活。

政策としては普通選挙法を成立させ、25歳以上の男性であれば、誰でも選挙権をもてるようになったという功績があります。

 

内閣総理大臣として

加藤内閣の成立以降、犬養は一度政界の引退も考えていますが、支持者によって引き戻され、1929年からは立憲政友会にて総裁を務めるまでになっています。

そして内閣総理大臣として、組閣の大命が下ったのが1931年、犬養が76歳のころのことでした。

犬養が首相に選ばれた理由

犬養が首相に選ばれた理由は、立憲政友会が議席の大半を有し、野党第一党となっていたことも関係しています。

しかし第一の理由は、中国との交渉役として適任だとされたためでした。

このとき前任の若槻内閣は、満州事変の責任を取って総辞職。

陸軍が満州を占領してしまったことに対し、中国との権利問題を話し合いで解決できるのが犬養だと判断されたのです。

先にも述べたように、犬養は中国の政治家とは親交が深く、1911年の辛亥革命に際しては臨時大統領の孫文を助け、中華民国の成立にも貢献しています。

このような事実をもって、元老・西園寺公望の推薦で首相に就任するのです。

中国との交渉

犬養は中国と平和的な解決をするために首相に任じられたようなものですが、実のところこの交渉は上手くいきませんでした。

満州を占領した軍部は、政府に日本の領土としての承認を要求。

犬養はこれを保留にし、辛亥革命の際、ともに中国に渡った萱野長知かやのながともを渡航させ、中国との交渉にあたらせます。

犬養が中国側に提示した解決案は

「形式的領有権は中国にあるが、経済的支配は日本が行う」

というもので、軍部の主張よりも中国に譲歩したものでした。

この交渉が思わぬ形で頓挫してしまうのです。

このとき、内閣書記官長を務めていた森つとむは、犬養の交渉手法を弱腰だと捉え、よく思っていませんでした。

そしてなんとあろうことか、萱野が中国から送ってきた経過報告の電報を犬養に渡る前に破棄してしまうのです。

もし犬養の交渉がうまくいっていれば、このあとの日中戦争が防げるようなこともあったのかも…?

世界恐慌からの脱出

中国との交渉は失敗してしまいましたが、犬養の首相就任による功績ももちろんあります。

犬養は組閣に際し、立憲政友会の高橋是清たかはしこれきよを大蔵大臣に任命。

以下のような積極財政を行い、世界恐慌を最速で抜け出すことに成功しているのです。

・金の輸出や紙幣との交換を禁止

・公共事業費を増額し、国内総生産の拡大、失業率の低下を促す

首相としての手腕は実際、郡を抜くものだったんですよね。

 

五・一五事件

以上のように、犬養毅は非常に優れた政治手腕をもった首相でしたが、1932年5月15日、悲劇の死を遂げることになります。

海軍、陸軍の青年将校が総理公邸を襲撃する「五・一五事件」です。

青年将校が暴走した理由

事の発端は1931年に遡ります。

当時、イギリスやアメリカをはじめとする列強諸国とのあいだで、軍艦の保有数などを制限する「ロンドン海軍軍縮条約」に日本は参加しました。

このときの濱口内閣は、軍部の了承を得ずにこの条約を結んでしまったため、犬養はこれを批判しています。

統帥権とうすいけんといって、陸軍や海軍は政府の支配下にはない組織とされていたためです。

この条約締結にまつわる軍部の不満が犬養の代になっても続いており、襲撃事件の引き金となるのです。

自らが苦言を呈した条約だったのに、代替わりして政府の代表となってしまったため、意図せず標的となってしまうわけですね…。

このほか、満州にて一部の青年将校の振る舞いに問題があるとして、処分を与えようとしたことも反感を買う理由になったという話。

いずれにしても、結局は青年将校の暴走に巻き込まれてしまったということです。

毅然とした態度で襲撃に立ち向かった犬養

襲撃に遭った際、犬養は拳銃を突きつけられながらも

「撃つのはいつでも撃てる。まあ、靴でも脱げや。話を聞こう」

と、毅然とした態度で接したといいます。

しかし問答無用で撃たれてしまい、

そのあとも、血を流しながら

「今の若いもんを呼んでこい。話して聞かせることがある」

と、居合わせた女中に告げたのだとか。

自らの死に際して、相手の言い分にここまで耳を傾けようとできますか…?

犬養は批判されるようなことがあっても言い訳をせず、相手の言い分をきちんと汲み取る指導者だったといいます。

言い訳をしないからこそ誤解されることもあり、この騒動に発展した部分もあるのかもしれませんね。

チャールズ・チャップリンも標的だった

実は襲撃の当日、犬養はイギリスから来日していたコメディアン、チャールズ・チャップリンとの会談を予定していました。

青年将校らはチャップリンもターゲットにしていたため、この日に襲撃を敢行したのです。

ロンドン海軍軍縮条約にはイギリスも大きく関わっているため、イギリスを代表する著名人である彼までもが槍玉に上げられてしまったわけです。

しかしこの日の会談は偶然延期となったため、チャップリンは難を逃れることとなりました。

もし彼にまで被害が及んでいたら、もはや国内だけで済まされる問題ではなくなっていたでしょうね…。

ちなみにチャップリンは犬養の葬儀にも弔文を送ってくれています。

 

きょうのまとめ

国民主導の政治を実現させ、世界恐慌からの脱出など、首相として国に大いに貢献した犬養毅。

悲劇を生んでしまったのは、先代内閣からのしがらみがあってのことでした。

詳しく知ってみると、「日本を良い方向へ変える力のある人だったのに…」とほんとに残念な気持ちにさせられます。

最後に今回のまとめをしておきましょう。

① 犬養毅が政界入りを果たした当時、帝国議会は開設目前で、国民主導の政治を訴える声も大きくなっていた。この世情に際し犬養は護憲運動を主導。薩長閥からなる政府と政権を争っていく。

② 犬養は幼少から漢学に傾倒しており、辛亥革命の支援に向かうなど、中国の政治家とも親交が深かった。それゆえ、満州事変の交渉に適任とされ、首相となった。

③ 政府が軍部の承認なしに結んでしまった「ロンドン海軍軍縮条約」。犬養はこれを批判する側だったが、後任の首相となったことで軍部の不満の矛先が向けられることに。事態は「五・一五事件」へと発展した。

犬養の国民の声に耳を傾ける姿勢は、それが襲撃の暴徒であっても変わりませんでした。

混乱を極めた当時では仇となってしまいましたが、多数の支持を集めたその生き様は、人付き合いのよいお手本にできそうです。

 
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