江戸時代、幕府の幹部である大老を務め、日米修好通商条約の締結などで、日本の近代化を推し進めた立役者
井伊直弼。
開国に対する反対の声が多いなか、天皇の許可も取らずに条約の締結を決めた彼の政策はいかにも強引…しかもその直後に行われた反対派の弾圧も過激で、悪役のイメージが強い人物です。
しかし、井伊直弼は一概に悪者だったとは言い切れません。
いったいどんな人物なのか…その生涯を通して詳しく知っていけば、印象は大きく変わるはずです。
以下より井伊直弼の生き様に迫っていきましょう!
タップでお好きな項目へ:目次
井伊直弼はどんな人?
- 出身地:近江国犬上郡(現在の滋賀県彦根市金亀町)
- 生年月日:1815年11月29日
- 死亡年月日:1860年3月24日(享年44歳)
- 近江彦根藩主・江戸幕府の大老を務め、日米修好通商条約の締結など、日本の近代化に貢献した。半ば強引な政治が反感を買い、暗殺される。
井伊直弼 年表
西暦(年齢)
1815年(1歳)近江国犬上郡(滋賀県彦根市金亀町)にて、13代彦根藩主・井伊直中の十四男として生まれる。
1831年(17歳)父直中が死没。自ら「埋木舎」と名付けた屋敷に移り住む。
1831~1846年(17~32歳)茶道・国学・兵学・禅・和歌・居合術など、多岐に渡る教養の習得に励む。
1846年(32歳) 彦根藩の跡取りに決まっていた十一男・直元が死没。藩主を務めていた三男・直亮の養子となり、彦根藩の後継者に抜擢される。
1850年(36歳)直亮が死没。家督を相続し、彦根藩主となる。直亮の遺産15万両を藩で分配。
1851~年(37歳)領内全域を巡見しながら、貧民への援助や病気の者を医者に見せるなど、秩序を整えていく。
1853~1857年(39~42歳)黒船来航の一報で江戸へ招集され、開国派と鎖国派で討議。同時期に将軍の後継者を巡っての論争も行う。
1858年(43歳)江戸幕府の大老に就任し、日米修好通商条約調印を許可。支持していた徳川家茂が将軍になる。
1858~1859年(43~44歳)条約の調印や家茂の将軍就任に反発した攘夷派が天皇の声明を仰ぎ、幕府を批判。攘夷派を弾圧する「安政の大獄」へ発展する。
1860年(44歳)江戸城に向かう途中、攘夷派の浪士18名の襲撃を受け、暗殺される。
井伊直弼の生涯
藩主の息子ながら恵まれなかった幼少期
1815年11月29日、井伊直弼は第13代近江彦根藩主・井伊直中の十四男として、近江国犬上郡(滋賀県彦根市金亀町)に誕生します。
十四男という途方もない立場…おまけに直弼の母は正室ではなく側室だったため、彼が藩主を継ぐことはまずあり得ないこと。
せっかく恵まれた家柄に生まれたのに、なんとも微妙な境遇にあったのです。
跡取りになれない藩主の子は各地の大名家の養子に出され、他所で出世を目指すという通例もあったのですが…
直弼はここでも運が悪く、養子の候補からも漏れてしまいます。
うーん…これなら庶民の家に生まれたのとなんら変わらなかったんじゃないか…。
こうして出世の道が完全に閉ざされた直弼は17歳のころ、父の死をきかっけに「埋木舎」という屋敷に移り住みます。
この呼び名は直弼本人が、出世していく兄弟のなかで埋もれてしまった自身を投影してつけたものです。
自虐だったのか、はたまた「なにくそ!」…という気持ちからつけたのか。
ともあれここから15年間、直弼はこの埋木舎で生活していくことになります。
教養の習得に励んだ青年期
埋木舎に移り住んだ直弼は15年間に渡り、あらゆる分野の教養を身につけていきます。
諦めずに自身を磨いていけば、いずれは道が拓けると信じていたのか、それとも単に好奇心旺盛だったのかはわかりませんが、彼が挑んだ分野は驚くほど多岐に渡っていました。
・国学
・兵学
・禅
・和歌
・居合道
・槍術
・能楽
興味の幅広さもそうですが、どの分野にしても単にかじった程度で終わらせないのが直弼のすごいところ。
茶道では石州流という流派を学び、そのなかで一派を起こしていますし、居合道でも新心新流という流派を開いていたり、和歌に関しても自ら歌集を残したりと…何をやるにも気合い入りまくりです。
こうして直弼は17~32歳のあいだ、生涯の3分の1ほどの時間を自らの修練に費やしていくのでした。
名君と呼ばれた藩主時代
1846年のこと、32歳まで恵まれない日々を過ごした直弼に転機が訪れます。
父の直中が亡くなって以来、藩主の座は三男の直亮が継いでおり、その後継者は十一男の直元に決められていましたが、なんと直元が藩主を継ぐ前に亡くなってしまったのです。
よって直亮は新しい後継者を決める必要性に迫られますが、彼には子どもがおらず、直弼以外の兄弟は全員、諸大名の養子に送り出されたあと。
ということで消去法的に直弼が跡取りに決められたのです。
自分だけ大名家の養子になれなかったことが功を奏し、十四男ではなれるはずもなかった藩主の座が巡ってきたわけですね。
こうして4年後の1850年には直亮が没したため、直弼は晴れて第15代彦根藩主に就任。
このとき彼の行った政策は
・領内を自ら回り、貧民を支援、病人に医者をあてがう
などなど。
実は直亮が評判の悪い藩主だったため、直弼は士民からものすごく支持されたといいますよ。
あの吉田松陰をして
と言わせたぐらいです。
冷酷なイメージをもっている人からすればちょっと意外ですよね!
黒船来航で江戸へ…幕府の大老となり混乱を極めていく晩年
直弼にとって第二の転機ともいえるのが、1853年の黒船来航です。
そう、浦賀沖に軍艦を引き連れてやってきたペリーが
と迫ったあの事件です。
このとき直弼は幕府から招集を受け、江戸へ出向。
鎖国か開国か…おまけに次期将軍を決める必要もあり、藩主たちは大論争に。
結局、1858年になって直弼が幕府の大老に就任したことで、日米修好通商条約調印の許可を出し、将軍の座も彼の支持していた徳川家茂のものとなります。
しかしこのとき、どちらの問題も意見が大きく割れていたことや、直弼が天皇の許可もなくアメリカと条約を結んでしまったことで、攘夷派(鎖国派)には大きく反感を買ってしまいます。
ここから幕府への反旗を翻した攘夷派に対し直弼がとった行動が、1858~1859年に行われた「安政の大獄」。
幕府に逆らった者は身分に関係なくみんな処罰という、行き過ぎたこの政策が彼の悪役のイメージを決定づけることになるのです。
いやいや…たしかに冷酷な政策かもしれませんが、これも江戸の秩序を守るためのこと。
また条約の締結も、アメリカが大量の軍艦を引き連れて日本を威圧したため、仕方なく行われたのです。
そうはいっても安政の大獄により、攘夷派に完全な標的とされてしまった直弼。
彼は1860年3月24日、18名の浪士の襲撃により、その生涯を終えることになります。
きょうのまとめ
井伊直弼は晩年の過激さから極悪非道の指導者のように思われがちですが、青年期にはひたすら自身の研鑽に励み、彦根藩主時代は慈悲深い政策で支持された背景もありました。
安政の大獄にしても、幕府からしてみればひとつの正義の形だったわけで、一概に悪いとはいえません。
それまでの直弼の人となりを見る限り、「彼もまた時代に翻弄された」とするのが妥当ではないでしょうか。
最後に今回のまとめをしておきましょう。
① 井伊直弼は藩主の家系に生まれたものの境遇に恵まれず、32歳まではあらゆる分野の教養を深めることに専念した
② 彦根藩主の座に就くと兄の遺産を藩で分配。そのほかにも領内の貧民や病人を助けて回るなど、慈悲深い政策を行った
③ 大老の座に就くと日米修好通商条約を締結。反対派の煽りを受けて「安政の大獄」へと発展していく
総じて、井伊直弼の生涯は「人生はいつ、どう転んでもおかしくない」と感じさせられるものでしたね。
関連記事 >>>> 「井伊直弼の子孫の現在は?」
関連記事 >>>> 「井伊直弼と直虎の関係とは?家系図を読み解く」
関連記事 >>>> 「井伊直弼はなぜ「安政の大獄」を行った?絡み合う政権のしがらみ…」
関連記事 >>>> 「井伊直弼の名言5選|歴史に残る大事件はその意志の強さから
」
その他の人物はこちら
江戸時代に活躍した歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【江戸時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
時代別 歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」