井伊直弼と直虎の関係とは?家系図を読み解く

 

井伊家と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、

日本史の教科書に出てくる、桜田門外ノ変で有名な井伊直弼ではないでしょうか。

一方の井伊直虎、2017年NHK大河ドラマ「 おんな城主 直虎 」で一躍話題です。

2人はどのような関係なのでしょうか。

みなさんご存知の通り、

直虎は結婚しておりませんから、

彼女の直系の子孫はいません。

家系図をみながら、

直虎から直弼までどのようにつながっていくのか見ていきたいと思います。

 

井伊直弼の家系図

まずは、井伊直弼の家系図をみていきましょう。

家系図

 

直虎から直弼までの繋がり

井伊家の出自

井伊家は、遠江国井伊谷の地(現在の静岡県浜松市)を
中世の約500年間治めていました。

駿河国守護大名の今川氏と対立していましたが、
今川氏が遠江国の守護になるとその支配下に置かれてしまいました。

井伊氏の周りには今川氏だけでなく、三河の徳川氏、
甲斐の武田氏など有力な大名がおり、
厳しい状況にいました。

直虎が井伊家繁栄の基礎を作る!!

井伊家は戦で男達が相次いで亡くなり、
直虎が後継者となりました。

居城である井伊谷城を取られたり、
武田氏が侵攻してきたりと、苦難に遭いながらも直虎は井伊谷城を奪還し家を守り抜きました。

そのような中、
彼女の元婚約者であった直親の子・直政が井伊家の跡取りとしての唯一の男子で、
養子にし井伊家を継ぐことになりました。

直虎は直政を育て、
徳川家康の小姓として徳川家に仕えさせました。

これが功を成し、
徳川家の重臣の一人となっていき、
井伊家繁栄の基礎ができあがりました。

家康にはとても気に入られていたそうです。

徳川幕府で揺るぎない地位に!!

直政は関ヶ原の戦いで、
大活躍しました。

井伊氏の鎧兜の色は赤で
「 井伊の赤備え 」として有名ですね。

直政は小柄ながらも勇猛果敢で、敵陣に突っ込んで行き、
「 井伊の赤鬼 」と恐れられたそうです。

そして見事大役を果たし、
戦後処理にも携わり、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政らとともに、
徳川四天王として揺るぎない地位を確立しました。

そして直弼まで

直弼までの家系はどのように繋がるのか、
見てみたいと思います。

後継者は順調に決められたていったのでしょうか。

直政の子、
直勝(後に直継と改める)の時に近江国彦根に築城を許され、
彦根藩藩主として治めることになりました。

しかしこの直勝、
家臣団をまとめきれず、
心配した家康が直勝の弟・直孝を彦根藩主にし、
直勝は安中藩主となりました。

直孝からその長男へは、
すんなり家督が相続されてはいきませんでした。

突然の長男の出家で末っ子の直澄が継ぎました。

当時の大名家の多くがそういう状況でした。

頓死、遁世(とんせい)、ハプニングはいつの時代でも起こります。

ですから、お家のために側室を持ち、
後継者候補を絶やさないようにしていました。

その後直弼まで、直澄(なおすみ)、直興(なおおき)、直幸(なおひで)、直亮(なおあき)と5代6度の大老職を出しました。

みなさん、
お家のために奮闘し努力されていたのですね。

直弼は第13代藩主、
直中の14男として生まれましたが、
兄の急死により後継者となり第15代藩主となりました。

 

きょうのまとめ

直虎も直弼も井伊家存続のため必死に生きていました。

直虎の時は、
後継者となる男子がいない上、
今川氏からの嫌がらせや家臣の謀反などで城を奪われたり、かなりひどい状態でした。

直弼の時は、
幕末の大変な時期に国の舵取りを行い、
厳しい状況下で切り盛りしていました。

二人には共通しているところがあります。

それは時代の転換期に主人になり井伊家のため、国のため悪戦苦闘していたという点です。

まさか自分が後継者になるとは思っていなかったという点も同じです。

なったからにはなんとしてでも!
という強い思いがあったと思います。

だから、井伊家は残りました。

直虎は、次の時代である江戸時代における井伊家隆盛の基盤を作り、
直弼は暗殺という悲劇に見舞われましたが、
明治時代には伯爵家となり井伊家を繋げていきました。

現在も井伊家は彦根で続いています。

 

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