保科正之とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

江戸時代屈指の名君の一人に数えられるお殿様、

保科正之(ほしなまさゆき)を知っているでしょうか。

名君と言われても、どんな人物なのか良く分からない

という人が多いのではないでしょうか。

保科正之についてまとめてみましたので見て行きましょう。

 

保科正之はどんな人?

  • 出身地: 江戸(現在の東京都)
  • 生年月日: 1611年
  • 死亡年月日: 1673年2月4日(享年 63歳)
  • 将軍の子として生まれ、会津藩の礎を築いた藩祖となる

 

保科正之 年表

年表

西暦(年齢)

1611年(1歳)二代将軍・徳川秀忠の庶子として江戸で生まれる。(幼名、幸松)

1617年(7歳)高遠藩主・保科正光の養子となる。

1629年(19歳)正室・お江の方の死により、父・徳川秀忠と面会する。

1631年(21歳)養父・保科正光の死去により、高遠藩主となる。

1636年(26歳)山形藩20万石の藩主となる。

1643年(33歳)会津藩23万石の藩主となる。

1651年(41歳)兄である三代将軍・家光が死去。遺言により四代将軍・家綱の後見人となる。

1657年(47歳)明暦の大火が起こる。見事な政治力を発揮して江戸の再建に努める。

1669年(59歳)子の正経に家督を譲り隠居する。

1670年(60歳)会津に御薬園を造り、薬草栽培を行う。

1673年(63歳)江戸の三田藩邸で死去する。

江戸時代の基礎を作った人物

保科正之は二代将軍・徳川秀忠の子として生まれますが、

正室・お江の方の嫉妬を恐れ、隠されて育てられました。

秀忠は生涯、正之を自分の子と認めることはありませんでした

しかし、三代将軍・家光は自分の実弟であることを認め、

正之の清廉潔白な性格を非常に気に入り、幕政において重用しました。

自分が亡くなるときも、枕元に正之を呼び

「 宗家を頼み置く 」

と遺言を残しています。

四代将軍・家綱の後見人となった正之は政治に才覚を表します。

戦国の世から抜けきれず、武断派が多かった中で、正之は文武派の政治を行います。

などにお金をかける政策ではなく、のための政策を行ったのです。

この「 平和のための政治 」は260年以上続く江戸時代の礎となりました。

保科正之がいたからこそ、江戸時代は長く続いたと言っても過言ではないのです。

 

保科正之にまつわるエピソードや伝説

それでは保科正之にまつわるエピソードや伝説をごいくつか紹介します。

日本初の年金制度を作った!

保科正之が日本初の年金制度を作った人物だと知っていますか?

保科正之の偉業のひとつですが、残念なことにあまり知られていません。

会津藩23万石の藩主となった正之は、藩の改革に乗り出します。

豊作の時期に米を買い上げ、「社倉」を設けます。

これは天候不良などによる不作の時や飢饉に備えての備蓄でした。

「社倉」のおかげで、会津では飢饉になっても餓死者が一切出なかったと言います。

さらに親孝行な子供を表彰し、褒美を与えました。

また、90歳以上の老人には、食べるのに困らないだけの米を支給しました。

これが日本初の年金制度です。

働いてきちんと税金を納めれば年金がもらえる、

これは現代の私たちにとっては当たり前のことですが、

今から400年以上も前の江戸時代にこう言った発想が出来た

正之は本当に素晴らしく賢いお殿様であったと言えます。

 

家光が弟と認めた瞬間

保科正之はスーパー謙虚人間でもありました。

江戸城内の大名たちの待合室で、正之は廊下ギリギリの末席に座っていました。

それを見ていた将軍・家光は

「 肥後守(正之)の上座につける身でもないのに 」

とつぶやいたところ、噂はたちどころに広まりました。

いつものように正之が登城し、末席に座ろうとすると、大名たちは「 もっと上座へ 」と正之に促します。

しかし正之はそれを断り、いつものように末席に座りました。

すると大名たちは正之の下座移り、部屋は空っぽで廊下に人があふれかえる不思議な光景になった。

という逸話が残っています。

実はこれ、家光が自分の弟である正之を試したのです。

謙虚な正之に感服した家光は、馬術を見るための席で正之に声を掛けます。

「 そんな遠い所に居たのでは話しが出来ない。余の座敷が空いているからそこへ来い 」

大勢の人が居る中で将軍が個人を声を掛けるのは異例のことです。

また将軍の座敷に上がることはそうそう出来ることではありません。

家光が正之を実弟だと認めたことを周りに示した瞬間でした。

関連記事 >>>> 「保科正之の真面目すぎる逸話」

関連記事 >>>> 「会津藩の祖・保科正之の家系図とは?」

天下とは民があってこそ

保科正之は民のための政治を貫いた人でもあります。

1657年の明暦の大火では江戸の6割が焼け、10万人以上の死者を出しました。

火は江戸城にも及び、江戸城の天守閣も焼け落ちます。

火が収まると、正之は焼け出された人々のために炊き出しを行いました。

さらに火事で家を失った人々に再建費として16万両を捻出します。

これは会津藩の年収に匹敵する金額です。

幕府の御金蔵がなくなってしまうと反対する人もいましたが、

蓄えとはこのようなときに下々へ施し、民を安心させるためのもの

と言い正之は反対派を説得します。

焼けてしまった江戸城天守閣再建の話しが出た時も、

いまはかようの儀に国家の財を費やすべき時にあらず

と反対します。

今までの戦国時代とは違い、「 天下とは民があってこそ 」だと言うことを

正之は分かっていたのかもしれません。

まだまだ武断派が多かったであろう時に、柔軟な考えを持てる

頭の柔らかい人だったのだと思われます。

こう言うところが名君と言われる才能なのでしょう。

関連記事 >>>> 「保科正之の名君ぶりが分かる名言」

 

きょうのまとめ

保科正之についてまとめてみましたが、いかがでしたでしょうか。

保科正之とは?

① 将軍の子として生まれ、会津藩の礎を築いた藩祖となる

② 日本初の年金制度を作った人物

③ 謙虚な姿勢が兄・家光を認めさせた

④ 民のための政治を行った

こうやって挙げるだけで、すごい人物だということが分かりますね。

その他の記事についても保科正之にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 

関連記事 >>>> 「幕末まで受け継がれた保科正之の家訓」

関連記事 >>>> 「保科正之の子孫はどんな人たち?」

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