肥後細川家初代当主・細川忠興は、
織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という戦国三英傑に仕えました。
次々と権力者が変わって行く世の中でしなやかに生きた細川忠興とはどんな人物だったのでしょうか。
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細川忠興はどんな人?
- 出身地:京(現在の京都市)
- 生年月日:1563年11月28日
- 死亡年月日:1646年1月18日(享年83歳)
- 戦国末期から江戸時代にわたり常に時の最高権力者に仕えながら、現代に続く肥後細川家の初代当主となった。美女と名高い細川ガラシャの夫
細川忠興 年表
西暦(年齢)
1563年(1歳)細川藤孝(幽斎)の長男として京都に生まれる
1577年(15歳)紀州征伐に参戦し初陣を飾る。信貴山城の戦いで活躍し、織田信長より直筆の感状を受ける
1578年(16歳)元服。明智光秀の娘・玉子(キリスト教洗礼後にガラシャとなる)と結婚
1581年(19歳)京都御馬揃えに参加
1582年(20歳)本能寺の変後に義父・明智光秀への協力を父子で拒否。父・幽斎の出家と共に宮津城主となり、羽柴秀吉に仕える
1584年(22歳)小牧・長久手の戦いに参加
1587年(25歳)九州征伐に参加
1588年(26歳)豊臣姓を下賜される
1590年(28歳)小田原征伐に参加
1592年(30歳)中国出兵(文禄の役)に従軍
1598年(36歳)秀吉の死去ののち、徳川家康に仕える
1600年(38歳)関ヶ原の戦いで東軍に与する。妻のガラシャが自害。論功行賞により豊前国中津33万9000石に国替えのうえ加増
1602年(40歳)小倉城に藩庁を移し、小倉藩初代藩主となる
1615年(53歳)大坂夏の陣に参加
1620年(58歳)三男の忠利に家督を譲り隠居
1645年(83歳)死去
細川忠興の生涯
細川忠興は、いつの時代も当時の日本でNo.1の主君にピタリと寄り添い、生き抜きました。
彼の主君との関係を見ながら生涯をたどってみます。
忠興の幼少期
細川忠興は1563年、室町幕府第13代将軍・足利義輝に仕えていた細川藤孝の長男として誕生。
1565年、「永禄の変」で将軍・義輝が殺害されると、藤孝は明智光秀らとともに、織田信長の力を借りて義輝の弟の義昭を次の将軍に擁立しました。
のちに政権を握っていた織田信長と義昭が対立すると、細川家は信長に仕えるようになりました。
織田信長と忠興
忠興の直属の主君は、信長の嫡男・信忠。
1577年、忠興は紀州征伐で15歳の初陣を飾りました。
信貴山城の戦いでも活躍し、信長から直筆の感状を受けています。
1578年に元服し、翌年に信長の仲介で、明智光秀の三女・玉子(ガラシャ)と結婚。
1579年には信長の命で建部山城城主・一色義道を滅ぼしました。
1581年の信長が催した京都御馬揃えにも参加しています。
この時期の戦いでは、信長の重臣・明智光秀と細川藤孝と忠興の父子が共に行動することが多くありました。
1582年、明智光秀が「本能寺の変」を起こします。
忠興の妻・ガラシャの父である光秀は苦楽を共にした藤孝・忠興の父子を味方に誘います。
ところが細川父子はこれを拒否。
藤孝はすぐに剃髪して信長への弔意を表わし、家督は忠興に譲ってしまいました。
謀反人である明智光秀とは無関係であることを示して細川家を守ったのです。
忠興も光秀には従いません。
妻のガラシャが光秀の娘であるため、彼女を丹後へ幽閉。
これは彼女の身を守りつつ、逆賊の娘として処分したのです。
頼みにしていた細川家の協力を得ることのできなかった明智光秀にとって細川親子の反応は大きな痛手となり、のちに山﨑の戦いで敗死しています。
羽柴(豊臣)秀吉と忠興
迅速な対応で、信長への忠誠を示し、光秀との内通がないことを証明できた細川家。
忠興は、次なる天下人・羽柴秀吉に仕え、丹後平定を成し遂げました。
1584年の小牧・長久手の戦いでも活躍し、のち秀吉から羽柴姓を与えられ、七将にも数えられました。
1590年 小田原征伐
1592年 文禄の役
これらにも従軍しており、秀吉の下で順調な働きぶりでした。
唯一、1595年に豊臣秀次が謀叛を疑われた事件の際、秀次に彼に黄金100枚の借金があった忠興は、秀次との結託を疑われました。
しかし、そのときには、徳川家康の援助で金子を用立て、豊臣秀吉に返納して危機から脱しました。
こうして家康と忠興は接近していきます。
徳川家康と忠興
1598年に秀吉が亡くなると、秀吉の重臣たちは
と、
とに分裂。
忠興は武断派つまり家康方のメンバーでした。
1599年には、家康の推挙により豊後6万石を加増され、丹後での12万石を合わせて18万石の大名となっています。
1600年の関ヶ原の戦いでは、忠興が徳川家康の東軍に与することを早くから表明しています。
妻の細川ガラシャは幽閉から戻って大坂城内の屋敷にいましたが、関ヶ原本戦の直前に西軍の襲撃を受けました。
しかし彼女は、石田三成側の人質となるのを拒否して自害。
忠興自身は、関ヶ原の本戦で黒田長政たちと共に戦い、石田三成本隊から136の首級を上げました。
関ヶ原の戦いは、徳川家康側の東軍勝利で終了しました。
その後の論功行賞で、忠興は丹後から豊前国中津33万9000石に国替えして加増され、豊後杵築の6万と合わせて39万9,000石持ち大名となっています。
忠興は、小倉城を大改修して完成後は九州の要とするべく小倉城に藩庁を移し、小倉藩初代藩主となりました。
関ヶ原後
1611年頃からの忠興は病がちとなります。
1615年、大坂夏の陣に参戦したものの、1620年には病のため三男の忠利に家督を譲りました。
のち忠興は隠居・出家しています。
1632年に忠利が肥後熊本54万石に加増・移封されると、忠興は9万5000石の隠居領をもらい、本丸に忠興の四男・立孝を入れ、自分は北の丸に隠居しました。
1646年に死没。
勇猛で文化人のオールマイティ武将
多くのことに造詣が深かった細川忠興のオールマイティさは、彼の処世術の上手さに強く結びついています。
・茶の湯では千利休に師事し、利休七哲の一人だった
・医学への造詣が深く、自ら製剤し医師以上の診断ができたほどで、健康に気を付けていた
・自分の剣術流派に合わせ、動きやすく且つわび・さびを取り入れた「越中具足」と呼ばれる実戦的な武具を考案した
あらゆる方面のことに興味を持ち、知己も多く、有効な情報網を持っていたことは、時代の動きを素早く察知できるという忠興の強みとなったのでした。
細川忠興の墓所
忠興とガラシャの墓 高桐院
1601年に細川忠興によって創建されました。
江戸初期に作られた庭にある灯籠、それが細川忠興と妻ガラシャの墓標となっています。
これは、もともと忠興の茶の湯の師匠である千利休が持っていた天下一の灯籠と呼ばれるものだそうです。
同墓所には、忠興の父親である細川藤孝をはじめとする細川家第3代から12代までの歴代の墓もあります。
<大徳寺 高桐院:京都市北区紫野大徳寺町73-1>
四つ御廟に祀られる忠興とガラシャ 泰勝寺跡
細川家の菩提寺として細川家3代当主・忠利が建立した泰勝寺の跡に、初代藩主・細川藤孝夫妻、そして二代藩主・細川忠興と妻ガラシャの墓である「四つ御廟」があります。
ガラシャ夫人が亡くなる前、身支度を整えるために使用した手水鉢も廟の横にあります。
<立田自然公園 泰勝寺跡:熊本県熊本市中央区黒髪4丁目610>
きょうのまとめ
今回は、戦国時代から江戸時代にかけてしたたかに生きた細川忠興の生涯をご紹介いたしました。
細川忠興とは
① 織田信長の仲介で明智光秀の三女・玉子(のちのガラシャ)を妻にした男
② 明智光秀が本能寺の変で謀叛を起こすと、父・藤孝と共に細川家を守るために親しかった光秀の誘いを拒否した人物
③ 勇猛さと教養を兼ね備え、戦国三代英傑の信長・秀吉・家康に仕えたオールマイティ武将
でした。
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