徳川家康の主だった家臣に、四天王と名高い本多忠勝と、
もうひとり本多の姓を名乗る本多正信がいました。
この頃家康の家臣には本多を名乗る大名が13もおり、また旗本においては45の本多姓がいたそうです。
その中で、戦で武功を挙げ有名な本多忠勝ですが、本多正信はどのような役をしていたのでしょう。
また本多忠勝と正信の間にはどのような関係があったのかあわせて調べてみました。
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本多忠勝と正信の関係
本多正信とはどんな人
正信は1538年三河で生まれました。
はじめは家康に鷹匠として仕えていました。
一向一揆が始まると正信は家康に背きます。
代々、本多家は一向宗の信者だったのです。
この時、本多忠勝は一向宗から改宗したそうですが、正信はその信仰を捨てられませんでした。
一向一揆は家康の勝利で終わります。
一度主君に背いた正信はその後、松永久秀のもとを頼ったりしながら諸国を流れ歩いていました。
しかし本能寺の変の前にはまた家康のもとに帰参が許されています。
正信は、家康が天下をとり世の中が平和になった頃から活躍します。
・家康が引退して秀忠に職を譲った時は、秀忠の側近(老中)になる
逆に本多忠勝は、家康と距離を置くようになります。
とはいえ10万石の所領を持つ忠勝と違い、その石高はわずか1万石にすぎませんでした。
家康が亡くなった1616年、正信は家督を嫡男正純に譲りそのすぐ後に家康を追うようにこの世を去りました。
享年79歳でした。
本多忠勝と正信に血の繋がりはあるの?
結論としてはあります。
本多忠勝も正信も、本多助政という人物の末裔です。
本多助政には、定通と定正の2人の子がおり、本多忠勝は定通から数えて7代目となります。
一方、正信は定正から6代目当主です。
本多忠勝の血筋を「平八郎家」と呼び、正信の血筋を「弥八郎家」と呼びます。
忠勝や正信の時代になれば遠い遠い親戚ということでしょうけど、その血は確実に繋がっているのです。
忠勝と正信の仲は?
どうもこの2人の仲は良くなかったようです。
武勇に優れた本多忠勝は、何度も戦に出て手柄を挙げています。
それゆえか本多正信のことを「腰抜け」と呼んでいました。
同じ血筋ではあるものの、家康の腰巾着など本多家として恥ずかしいと考えていたようです。
ですが、
忠勝は「家康が天下を取るまで活躍した人」です。
逆に正信は「家康が天下を取り安定してから徳川を支えてきた人」です。
ですから直接2人が仲違いしたという様子はありません。
きょうのまとめ
簡単にまとめます。
② 忠勝は、天下をとるまで、正信は天下を取った後活躍した
③ 仲はあまりよくなかった
同じ血筋の本多忠勝と本多正信は、決して仲のいい2人ではなかったようですね。
直接争ったということはないようですので、豪快で一直線な考え方の本多忠勝が正信のことを勝手に毛嫌いしていたのかもしれません。
たとえ仲が悪かったにせよ、この2人なしには徳川家は成り立たなかったでしょう。
戦国の世を戦い続け家康を支えた本多忠勝、また安泰の世に参謀として力を振るった本多正信。
こうしてみるとやはり徳川家康はとても家臣に恵まれた幸運な人だったのだなと感じます。
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