北条早雲は成り上がりものではなかった?家系図で検証!

 

戦国時代、下克上の典型として語られることの多い、

「北条早雲、斎藤道三、松永久秀」の3名。

一介の素浪人から成り上がって、大名にまで上り詰めたという驚きと共に語りたいのは人情でもありますが、

最近の研究では、北条早雲はそうではなかったことが明らかになっています。

北条早雲はどのような出自で、どのような役割を果たしたのか、

家系図を紐解きながら見ていきたいと思います。

 

北条早雲の出自

北条早雲

北条早雲
出典:Wikipedia

北条早雲の父

北条早雲の父は、室町幕府の政所執事を務めた伊勢盛定いせもりさだであったとされるのが有力な説です。

この説に従えば、早雲は伊勢盛定を父とし、京都伊勢氏当主の伊勢貞国の娘を母として、1456年に備中荏原びっちゅうえばら荘(現在の岡山県井原市)で生まれたことになります。

伊勢盛定の子供

伊勢盛定には、

・長男:貞興

・次男:盛時(後の北条早雲)

・三男:弥次郎

・長女:北川殿

という、4人の子供がおり、次男・盛時が後の北条早雲です。

伊勢氏は、足利尊氏の代から使える幕臣であったことから、早雲の出自は、身分の低い素浪人ではないことになります。

そのうち、早雲の姉(もしくは妹)にあたる北川殿は、駿河守護の今川義忠と結婚し、駿河今川氏9代目となる今川氏親を生むことになるのです。

今川氏親は、後に織田信長と桶狭間で戦うことになる今川義元の父であり、その人物が北条早雲の甥にあたることを考えると、歴史の面白さを感じることができるのではないでしょうか。

 

今川義元と桶狭間の戦いについてはこちらの記事をどうぞ。

関連記事 >>>> 「今川義元 桶狭間の戦いの敗因 なぜ織田信長に敗れたのか。」

 

北条早雲の妻子

北条早雲には3人の妻がおり、その間に4男2女がいたことが確認されています。

正室は、室町幕府奉公衆の小笠原政清の娘である「南陽院殿」です。

側室の1人は駿河国東部の豪族・葛山氏の娘、もう1人が伊豆の狩野氏の娘「善修寺殿」とされています。

正室・南陽院殿との間の子供

正室・南陽院殿との間に生まれた子供は、長男・氏綱と、次男・氏時です。

氏綱は、伊勢氏にかわって北条氏を名乗り、後北条第2代当主となって、

その後、氏康、氏政、氏直と続く、「後北条5代」の時代を築き上げていくことになります。

側室・葛山氏の娘との間の子供

側室・葛山氏の娘との間に生まれた子供は、三男・葛山氏広です。

しかしながら、氏広に関しては、早雲の次男・氏時の子とする説もあります。

どちらにしても、後北条の一族とされ、後に駿河国東部の葛山氏の養子となり、その家督を継ぐことになるのです。

側室・善修寺殿との間の子供

側室・善修寺殿との間に生まれた子供は、四男・長綱と、2人の娘です。

2人の娘に関しては、生年不明のため、どちらが長女・次女かは分かりません。

四男・長綱は、幼くして僧籍に入り、後に「幻庵」と呼ばれることになる人物で、後北条滅亡の半年前まで生き(享年97歳)、一門に対して大きな影響力を持つことになります。

 

きょうのまとめ

北条早雲に関しては、はっきりしていないことも多く、

諸説あるため、謎の多い人物なのですが、家系図から見える事柄をまとめてみると、次のようになるのではないでしょうか。

① 足利尊氏の時から幕府に仕える伊勢氏出身

② 正室との間に生まれた長男・氏綱が北条を名乗る

③ 早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直が「後北条5代」と呼ばれる

北条早雲の小田原城奪取からの一連の活動は、相模平定し、東国での地盤を固める大きな役割を果たし、

戦国時代において、関東で覇を唱える「北条氏」という一大勢力を築くことになるのです。

北条早雲の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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