どうしてもイギリスの悪王として真っ先ぐらいに名前が挙がってしまう
ヘンリー8世。
なぜそんなに評判が悪いのでしょうか。
そして実態として彼の歴史的意義とは何なのでしょうか。
もちろん、彼の代名詞でもある「6人の奥さんの話」をふくめて紹介します。
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ヘンリー8世はどんな人
- 出身地:イギリス、グリニッジ
- 生年月日:1491年6月28日
- 死亡年月日:1547年1月28日(享年55才)
- イングランド国王。同国の絶対王政に先鞭(先に手を付けること)。わがまま王として有名。
ヘンリー8世の年表
1491年(0才)ヘンリー8世生まれる
1509年(18才)イングランド王に即位。キャサリン・オブ・アラゴンと結婚。
1508~16年(20才前後)カンブレー同盟戦争
1521年(30才)ローマ教皇庁より「信仰の擁護者」の称号を授かる
1533年(42才)アン・ブーリンと結婚
1534年(43才)国王至上法発布
1536年(45才)ジェーン・シーモアと結婚
1540年(49才)アン・オブ・クレーヴズと結婚。キャサリン・ハワードと結婚。
1542年(51才)スコットランドへの「乱暴な求愛」成就させる。自身アイルランド王ともなる。
1543年(52才)キャサリン・パーと結婚
1547年(55才)ヘンリー8世亡くなる
ヘンリー8世の優秀な才覚
ヘンリー8世はテューダ―朝の2代目君主です。
お兄さんが早くに亡くなったために、お父さんヘンリー7世の跡を継ぐこととなりました。
今、この人といえばまず「6つの結婚」の話。
あまりに外道あつかいされるのですが、意外にも若いころから文武には優れた才覚を発揮しておりました。
さすがエリザベス1世のお父さんです。
●スペイン語・フランス語・ラテン語がペラペラ
●乗馬・音楽・舞踊も得意
ヘンリー8世の政略
しかし、よく知られている通り、とかくわがままであり強引です。
列強との戦争・外交ではよそもやっているとはいえ、あっちについたり、こっちについたり。
離婚したさのあまり、イングランド国教会を成立させる、ということもありました。
それまで国内で優位だったカトリックでは離婚を厳しく禁止しております。
そこで、
「イングランドはカトリックから独立してしまえ」
ということです。
ちなみにこの時、カトリック教会から土地や財産を強引に巻き上げ、それをたよる貧しい人たち、苦しい人たちをのきなみ放り出してしまいました。
これで、自分で悪くした財政難までまかなってしまおう、というとんでも剛腕行政です。
ヘンリー8世の6人の妻たち
奥さんに関しては、
1人目のキャサリン・オブ・アラゴンは元・兄の奥さん。
お兄さんが早くに亡くなり、ヘンリー8世が彼女をむかえることになりました。
しかし、ヘンリー8世は気に入らず離婚。
2人目の妻がアン・ブーリン。
相思相愛。
だったのですが、男の子が生まれません。
するとアン・ブーリンに“スキャンダル”が突然発覚し、刑死。
3人目がジェーン・シーモア。
彼女は息子エドワード6世を産んですぐに亡くなってしまいました。
4人目がアン・オブ・クレーヴズ。
「見せられた肖像画と似てなさすぎる」として結婚後すぐに離婚をせまられます。
5人目はキャサリン・ハワード。
スキャンダルが発覚して刑死です。
6人目がキャサリン・パー。
彼女にも“絶体絶命のピンチ”がありましたが、なんとかヘンリー8世の死後まで生き延びました。
ヘンリー8世のその後のイギリスへの影響
ただ一方でヘンリー8世のやり方には後の世界の強大国イギリスのいしづえともなった形跡がないわけではありません。
実際、イングランド国教会の成立によって、国はカトリック勢力からわりと独立した状態を保てるようになりました。
その後のイギリスにおける国力・文化の発展にも大きく影響しているはずです。
そして、イギリス海軍の改革、駅逓制度の普及にも着手しております。
きょうのまとめ
その時、ヨーロッパはルネッサンス・大航海時代・宗教戦争の真っただ中。
なんとも時代を象徴した個性というべきでしょう。
そして知っての通り、歴史はそれで終わりというわけではありません。
それは今も刻々とつむがれ続いております。
① ヘンリー8世の生き方・政治姿勢は基本的にわがまま・強引
② ヘンリー8世と結婚をして無事で済むのは正直難しい
③ ヘンリー8世は国の強化に関しては功罪ある
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