服部半蔵の名前を聞いたことがない人はあまりいないでしょうが、知っているのは忍者ということぐらいで、実際何をした人なのかは知らない人もまた多いのでは?
実は意外な話で、彼は忍者ではなく、徳川家康に仕えた腕利きの武将でした。
戦における強さは「鬼半蔵」の異名がつくほどで、家康の天下統一にかなりの貢献をした人なのです。
もちろんイメージにあるように、忍者ともばっちり関係がありますよ。
服部半蔵とはいったいどんな人だったのか?
今回はその生涯から、彼の人物像を探っていきましょう。
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服部半蔵はどんな人?
- 出身地:三河国(現在の愛知県)
- 生年月日:1542年
- 死亡年月日:1597年1月2日(享年55歳)
- 徳川家康の家臣で腕利きの武将。無類の強さから「鬼半蔵」の異名をもち、徳川家の忍者部隊・伊賀衆の頭領を任された
服部半蔵 年表
西暦(年齢)
1542年(1歳)初代服部半蔵である父・保長の五男、または六男として三河にて誕生。
1548年(6歳)岡崎市にある大樹寺に預けられるが、出家を拒否して失踪。その後7年間は消息不明になる。
1557年(16歳)三河宇土城の夜襲で活躍を称えられ、徳川家康から盃と槍を授かる。
1569年(28歳)遠江掛川城攻めに参加。
1570年(29歳)姉川の戦いに参加。戦いではいち早く手柄を挙げ、若い兵の世話役も任されていた。
1572年(31歳)三方ヶ原の戦いで敗戦するも追ってきた敵を返り討ちにし、士気が下がっていた味方を鼓舞した。家康から槍2本と伊賀衆150人を預けられる。
1575年(34歳)徳川家の家臣・長坂信政の娘と結婚。
1576年(35歳)長男の正就(3代目服部半蔵)が生まれる。
1579年(38歳)家康の長男・信康の処刑を任されるが、介錯できず。そのことがより家康の評価につながった。
1580年(39歳)次男の正重(4代目服部半蔵)が生まれる。
1582年(41歳)本能寺の変に際して家康の窮地を救い、伊賀衆の頭領に命じられる。同年、伊賀衆を率いて江草城の落城・戸倉城の防衛など多岐に渡る活躍を見せる。
1584年(43歳)小牧・長久手の戦いで伊賀衆を率い、鉄砲で豊臣軍を撃退する。
1590年(49歳)小田原征伐に鉄砲奉公として参加し奮戦する。
1592年(51歳)越前名護屋へ鉄砲奉公として従軍。
1593年(52歳)家康の長男・信康の死を弔うため、西念寺の建設にとりかかる。
1597年(55歳)病没。自身が建設に携わった西念寺に葬られる。
服部半蔵の生涯
まず服部半蔵のなかでも現代に広くその名が浸透しているのは、2代目服部半蔵のことで、本名は服部正成といいます。
「ん? 2代目? じゃあ服部半蔵って何人もいるの?」と思うところ、
まったくその通りで、服部半蔵はそもそも服部家の当主が名乗る名前で、末を辿っていくと12代目まで続いています。
そのなかで一番有名なのが、徳川家の名武将として活躍した2代目の正成ということですね。
幼少期から屈強だった2代目服部半蔵
正成は1542年、三河国(現在の愛知県)にて、初代服部半蔵・保長の五男、もしくは六男として生まれています。
幼少から屈強な少年だったとはいいますが、上に何人も兄がいながら服部家の当主となっていることからも、彼に特別な素質があったことは明らかです。
何せ年端もいかないころから出家を拒んで家を出ると消息を絶ち、親にも頼らず暮らしているぐらいですから…。
どんな子どもだよ…とツッコみたくなります。
ちなみに服部半蔵といえば伊賀忍者のイメージですが、初代の保長はそのとおりの元伊賀出身の忍者です。
しかし伊賀では立場が弱く、生活していくのに困ったため室町幕府の12代将軍足利義晴に仕え、その後に三河の大名だった松平清康(徳川家康の祖父)の元へ。
そのため、息子の正成の出身地は伊賀ではなく三河になっているのです。
16歳の初陣にて家康から盃と槍を授かる
正成の初陣は彼が16歳のころ、1557年の三河宇土城の夜襲です。
16歳で初陣というのはまあ、戦国時代においては珍しいことではないのでしょうが、正成がすごかったのは、この戦で家康も目を見張るような活躍をしたこと。
夜襲が成功したあかつきには、家康は自分の持ち槍を正成に贈り、さらに盃も交わしたといいます。
将軍が愛用していた槍を16歳の少年に授けるって…相当なことですよね。
また盃に関しても「親分、子分の盃を交わす」なんてよくいわれるように、信頼関係が結ばれた証です。
さすが服部半蔵…少年時代からすでに家康の心を射止めていたとは…。
多岐に渡る武功から徳川十六神将のひとりに
20代後半~30代にかけての正成はまさに破竹の勢い。
・姉川の戦い
・三方ヶ原の戦い
と立て続けに武功を挙げ、徳川家でも特に秀でた武将を意味する「徳川十六神将」の名をほしいままにします。
なかでもすごかったのが三方ヶ原の戦いです。
何せこの戦いで徳川軍は負けているにも関わらず、正成は家康から新たに槍を2本贈られ、150人の部下を預けられています。
…負けているのにどうしてそんな褒美を?
となるところですが、負けるにしても正成はただでは負けなかったのです。
武田軍に敗戦を喫した徳川軍は、そのとき浜松城へ逃げましたが、武田もせっかく追い詰めた徳川を易々と逃がすようなことはせず、追手をよこします。
正成はこれを受けるとひとり城外へと飛び出し、追手を返り討ちにすると、討ち取った首を片手に城内に戻ってきたというのです。
徳川の敗走に勢いづいた武田軍に対し「あんまり調子に乗るんじゃねえ!」といったところ。
…かっこよすぎです。
本能寺の変の伊賀越えで忍者部隊を得て、さらに活躍
ここまででも徳川軍において、右に出る者なしの活躍を見せている正成ですが、彼の地位を決定づけたのは1582年に起きた本能寺の変に際した一件でした。
本能寺の変で明智光秀によって信長が討たれた際、家康は正成を含む少数の部下たちと大坂の堺を訪れていました。
本能寺の変は京都で起きているわけですから、その場にいては危険。
このとき、正成は父親が元伊賀忍者であることのコネクションを使い、伊賀・甲賀の忍者たちの協力を得て、伊賀を越えて三河へ帰るルートを確保し、家康のピンチを救います。
このとき協力した忍者たちはそのまま家康の配下となり、その忍者部隊の頭領を正成が担うことになるのです。
この忍者部隊を得た正成の強さは勢いを増し、同年佐久群(長野県の一部)の江草城や佐野小屋など、敵の拠点を複数陥落させ、さらに各地で妨害工作にも暗躍。
武田の勢力を大幅に削り、家康の天下統一に大きく貢献したのです。
こうして目立った功績があるどころか、その人生の大半が功績のような生き方をした服部半蔵。
彼は1590年ごろには戦場を離れて僧侶になり、1597年、55歳にしてその生涯を終えます。
その遺骨は彼自身が建設に携わった、現在の新宿区にある西念寺にて葬られました。
きょうのまとめ
現代でも忍者のイメージで非常に人気のある服部半蔵の実態は、徳川家康に仕えた腕利きの武将。
そのネームバリューに負けず、戦の強さにかけてはほかの追随を許しません。
また彼が率いた忍者部隊の活躍が家康の天下統一に大きく影響していることも、忘れてはいけませんね。
最後に今回のまとめをしておきます。
① 服部半蔵は16歳の初陣ですでに家康に気に入られ、愛用の槍や盃を授かっていた
② 20代後半~30代は数々の戦で武功を挙げ、「徳川十六神将」と呼ばれるように
③ 本能寺の変に際した伊賀越えの活躍で忍者部隊を預かるとさらに猛威を振るい、武田家の勢力を大幅に削った
服部半蔵はまさに戦に生涯をささげ、戦に愛された男!
かっこいいですねえ…。
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