菊池寛とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

明治から昭和にかけて、作家としてはもちろん、実業家として『文藝春秋社』を起こすなど、多方面での活躍を見せた

菊池寛きくちかん

その活動の幅はときとして市議会議員や映画会社の社長にまで及ぶなど、留まるところを知りませんでした。

たとえば彼の友人であった芥川龍之介のように、作家といえば作品の製作にひたすら没頭するようなイメージです。

そういった意味で、この時代において寛はかなり特殊な存在だったといえます。

菊池寛はいったいどんな人物だったのでしょう?

今回はその生涯から、彼の人物像を辿っていきましょう。

 

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菊池寛はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:香川県高松市
  • 生年月日:1888年12月26日
  • 死亡年月日:1948年3月6日(享年 59歳)
  • 明治から昭和にかけて活躍した作家・実業家。文藝春秋・芥川賞・直木賞などを設立し、現代の文学界の基礎を作った。

 

菊池寛 年表

年表

西暦(年齢)

1888年(1歳)香川県高松市にて7人兄弟の四男として誕生。

1905年(17歳)高松中学校を首席で卒業。高松に新しく図書館ができ、2万冊の蔵書を読破する。

1906~1909年(18~21歳)東京高等師範学校へ行くも除籍、明治大学を3ヵ月で退学。徴兵を避けるために早稲田大学に籍を置くなどあらゆる学校を転々とする。

1910年(22歳)文学者になるため第一高等学校(現在の東大教養学部)に入学。同級生に芥川龍之介、久米正雄らがいた。

1912年(24歳)窃盗事件を起こした友人の身代わりになり、退学処分を受ける。その後、友人の実家からの援助で京都帝国大学文学部に入学。

1914年(26歳)芥川、久米らと同人誌『新思潮』を創刊する。

1916年(28歳)『新思潮』にて戯曲『屋上の狂人』『父帰る』を発表。京大を卒業し上京し、時事新報社会部の記者になる。

1917年(29歳)旧高松藩士の娘、奥村包子かねこと結婚。

1919年(31歳)時事新報を退社し、執筆活動に専念。新聞で連載した『真珠夫人』が注目を浴び、一躍人気作家に。

1923年(34歳)新人作家に発表の場を与えるため『文藝春秋』を創刊。

1926年(37歳)独立して文藝春秋社、日本文藝家協会を設立。

1935年(46歳)芥川龍之介賞・直木三十五賞を設立。

1937年(48歳)東京市会議員に当選。

1938年(49歳)内閣情報部の命令で作家同士を募り、中国へ従軍。帰国後は文藝銃後運動を起こし、各地で作家による慰問、講演会を行った。

1942年(53歳)日本文学報国会の議長になり、日本文藝家協会を解散。

1943年(54歳)映画会社「大映」の社長になり、国策映画作りに奮闘する。

1947年(58歳)第二次世界大戦で指導的立場をとったのを理由に、GHQの命令で公職を追放される。

1948年(59歳)胃腸障害を患い、回復するも狭心症を起こし死没。

 

菊池寛の生涯

1888年、菊池寛は元高松藩の儒学者の四男として、香川県高松市に生まれます。

漢字こそ変わりませんが、「かん」というのは作家としての名前で、本名は「ひろし」です。

貧しく報われない環境でも異才を発揮した少年時代

この時代の元高松藩といえば明治維新の混乱により、多くの藩士が没落しており、菊池家も例外ではありませんでした。

寛の父は小学校の庶務係を務めていたものの、給料は安く、家計はとても苦しいもの。

寛も小学校時代は教科書を買ってもらえなかったり、修学旅行に行けなかったりと、苦しい経験をたくさんしています。

それでも教科書は友人から借りたものを自分で写本したり、中学時代は新しくできた図書館の蔵書2万冊をすべて読破してしまったりと、貧乏な境遇を並々ならぬ努力で乗り切ってみせます。

また寛は一度目を通した本はスッと頭のなかに入ってくるという、驚異的な記憶力をもっていたのだとか。

そんな才能と努力の賜物か、1905年には高松中学校を首席で卒業し、同年、東京高等師範学校に学費免除で入学することになります。

ここまでなら「孝行息子だなあ!」という感じですが…

問題はこの後からなのです…。

多数の学校を転々としたのは好奇心旺盛な性格から

師範学校に学費免除の特待生として入った寛でしたが、なんとすぐに除籍処分をくらうことになります。

なんでもろくに授業も受けず、テニスをしたり芝居を見たり…趣味に遊び歩いていたのだとか。

まあ大学に入学して羽目を外してしまうのはありがちですが…このころの寛は一度ぐらい除籍処分になったからといって、懲りたりはしません。

その後は地元の有志から支援を受けて明治大学へ入学しますが、今度は文学者になるために第一高等学校(現在の東大教養学部)へ行きたいといい、退学。

挙句、「徴兵には行きたくない」と籍だけを早稲田大学に置き、第一高校合格のあかつきに退学…とやりたい放題です。

…どこもそんなに簡単に入れる学校じゃないですよね?

せっかく入った一流の大学も、自分の興味のおもむくままに、見事に転々としてみせる寛…

支援してもらっている身とはとても思えません。

もちろん地元の有志からもあきれられ、支援は打ち切られますが、最終的には父親が借金をして寛を第一高校に通わせます。

うーん…いいのか悪いのか…。

仲間たちと文学を志した大学時代

1910年、第一高校に入学した寛には、まさに運命を左右する出会いが待っていました。

このころに共に作家を志し、同人誌『新思潮』を創刊する同士の芥川龍之介、久米正雄らと同級生になるのです。

もっとも第一高校にしても寛は退学処分をくらってしまうので(またしても…)、

新思潮の創刊はもっと後になるのですが、この同人誌にて戯曲を発表したのが作家菊池寛の第一歩でした。

そう、菊池寛といえば小説家のイメージがあるかもしれませんが、スタートはどちらかというと劇作家なのです。

友人をかばって自身が退学処分を受ける「マント事件」

…と、第一高校時代も退学処分になってしまった寛でしたが、これは実は友人の佐野文夫をかばってのものでした。

その経緯とは、

あるとき佐野は日本女子大学の女学生とデートをするために、第一高校のシンボルになっていたマントを着ていきたいと思った。

しかし自身のマントは質に入れて手元になかったため、他人のマントを黙って拝借し、デートに着ていった。

ということだといいます。

なるほど…一流の大学に通っていることを女子にアピールしたかったわけですね。

自分のマントを質に入れたのは遊ぶお金欲しさでしょうか?

まあマントを借りるにしても後々返せば問題なかったはずなのですが…

なんと佐野と寛は、後日この借り物のマントお金欲しさに質に入れてしまうのです。

このとき寛はそのマントが借り物であることは知らなかったわけですが…盗難届が出ていたことで、「どういうことだ」と問いただされてしまいます。

これを受けて寛が佐野にその旨を伝えると、佐野は「両親に合わせる顔がない」と泣き出す始末。

そう嘆く彼を前にした寛は、その面倒見のいい気質から、罪を全部被ってしまうのです(うーん…面倒見がいいとかそういう問題でもないような…)。

これが寛の第一高校退学の一連の流れ…

せっかくお父さんが借金してまで通わせてくれたのに…。

しかしその男気ある性格から友人からは好かれていたようで、退学になったあかつきにはすぐに友人の成瀬正一が実家からの支援を取り付け、京都帝国大学へ進めることになります。

…まったくもってすごい学歴です。

作家としてのブレイクを経て『文藝春秋』創刊へ

1916年になり、今度は無事京都帝国大学を卒業した寛は上京。

時事新報という新聞の記者を勤めるかたわら、文学者となるべく芥川や久米らと合流し、夏目漱石に師事します。

そしてターニングポイントとなったのは1919年に、大阪毎日新聞、東京毎日新聞にて連載した小説『真珠夫人』

後に映画化、テレビ化されるなど大いに話題を呼ぶこの作品で、寛は一躍人気作家へとのし上がります。

そして人気作家となった寛が掲げた次の目標は、

新人作家がもっと積極的に活動できるような場を作る

というものでした。

これが1923年に創刊される『文藝春秋』です。

“文春砲”などと揶揄されるように、今では雑誌の趣旨も大きく変わっていますが…そもそもは寛の面倒見のいい気質から作られた雑誌だったのですね。

芥川賞・直木賞を生んだのも菊池寛

寛は文藝春秋のような新人作家の活動の場を作っただけに留まらず、1926年には日本文藝協会を設立。

作家たちが活動しやすい環境を作るべく奔走していきます。

優れた新人作家に贈られる芥川賞直木賞も、1935年に寛が設立したもの。

賞が設立される数年前に芥川龍之介は亡くなっており、この賞には彼の死を悼む意味も込められていました。

葬儀では寛も涙ながらに弔辞を読んだという逸話も…。

こうして現代に続く文学界の基盤を築いた菊池寛は、晩年は第二次世界大戦において作家たちを率いての従軍、各地への慰問に出向いたり、かと思えば映画会社の社長になって映画製作に打ち込んだり。

その好奇心旺盛な性格を武器に各分野で活躍を見せていくのでした。

 

きょうのまとめ

菊池寛は自伝『半自叙伝』のなかで「小説は人生経験あってのもの」という趣旨を語っています。

その言葉を表すかのように、寛の送った生涯は興味の範囲の広さにとにかく驚かされるものです。

いいか悪いかは別にして、大学時代の度重なる退学もなかなか常人が真似できるものではありませんし、人気作家になるだけでも快挙と呼べるのに、彼はその枠にも収まりませんでした。

未知の世界に自ら進んで飛び込んでいく。

寛の生涯はその繰り返しで作られていった、まさに人生経験の塊のような人生といえるでしょう。

最後に今回のまとめをしておきます。

① 幼少期は貧しさに負けず努力し、優秀だった。一度読んだ本はスッと頭に入るといい、図書館にある2万冊の蔵書も読破してしまった

② 大学時代は好奇心のおもむくままに退学を繰り返す。なかには友人の罪を被っての退学もあった

③ 『真珠夫人』でブレイクしたあかつきには文藝春秋・芥川賞・直木賞の設立など、新人作家の活動の場を整えるべく奔走

現代の文学界に続く偉業の数々を見ていると、何か事を起こすには寛のように破天荒なぐらいが丁度いいのだろうな…と思わされますね。

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