服部半蔵と松尾芭蕉は同一人物!?芭蕉の旅は徳川の後ろ盾が支えた?

 

戦国時代、徳川家康のもとで伊賀流忍者を束ね、家臣でも特に腕利きの武将に与えられる「徳川十六神将」のひとりにも数えられた

服部半蔵こと、服部正成まさなり

『忍者ハットリくん』のモデルにもなっているように、忍者といえば一番に名前の挙がる人物ですよね。

家臣であった時代にも偉業を残した半蔵でしたが、実は彼の生涯には、家康のもとを去ったあとの後日談があります。

…といっても、確証のある話ではなく、いわゆる都市伝説の一種なのですが。

その噂によると、なんと服部半蔵はあの江戸時代を代表する俳人・松尾芭蕉と同一人物だというのです。…うーん、気になる!

今回はふたりが同一人物だといわれるゆえんを、ひとつずつ辿っていくことにしましょう。

 

服部半蔵=松尾芭蕉だといわれるゆえんは?

服部半蔵

服部半蔵
出典:Wikipedia

記録としては、服部半蔵は家康のもとで家臣を務めたのち、1597年には病没しています。

今回の噂が本当なら、この記録は間違いということになります。

というのもこの噂で半蔵は、家康が天下統一を果たしたあかつきに

半蔵
自分を自由の身にさせてほしい

と申し出、その際に名を松尾芭蕉と改め、旅に出たとされているからです。

つまり半蔵は自身が死んだように見せかけ、その後の人生を芭蕉として俳句を詠みながらすごした…ということになります。

だとしたらそれこそ忍者らしく、まるでスパイ映画のような話です。

しかしこれにも「本当かも?」と思わされる理由がいくつかあるのです。

『おくのほそ道』の旅の移動距離が尋常ではない

芭蕉といえば関東から東北地方をグルーっと周り、果ては福井や岐阜あたりまでを、俳句を詠みながら巡ったといわれる『おくのほそ道』の旅が有名です。

これってこう聞くと「全国なんて周っちゃいないじゃないか」と思ってしまいますが、その旅路は数字にすると約2,400kmと、けっこうとんでもない距離になるんです。

この距離を芭蕉は150日ほどで周ったといわれており、1日で50kmを歩くような日もあったのだとか。

…ちなみに当時の彼は46歳だったといわれています。

その歳でそんなに歩けますかね?

といっても「忍者だからめっちゃ足が速かった」とか、みなさんが期待するような話ではありません。

そもそも同一人物とされている半蔵も忍者をまとめていただけで、自身は忍者ではありませんしね。

芭蕉がその距離を歩けた理由は、金銭的に多大な支援があり、常に馬に乗って移動できたからだといわれているのです。

多大な支援…。まさか家康が…?

特別な理由がなければ通れない関所も見事にスルー

芭蕉が生きた江戸時代というのは、現在のように日本国内を自由に行き来できるような時代ではありませんでした。

尾張国とか三河国とか、日本のなかでも国として領土が分けられており、地域間の関所を通るには何か特別な理由が必要だったのです。

海外へ行くのにパスポートが必要なのと同じ感覚ですね。

ただこのころは一般人が関所を通るのはよっぽどじゃないと無理な話で、今の入国審査の比ではなさそうですが。

芭蕉はおくのほそ道の旅で、この関所をスルーしているわけです。

しかも移動の速度を考えると、通るのになんら手間はかからなかったと考えられます。

芭蕉はどうして関所をなんなく通れたのか。

徳川家の権威をもつ半蔵であれば、あるいは可能なのでは…?

芭蕉の出身地は伊賀

芭蕉の出身地は、一般的に三重県伊賀市とされています。

伊賀といえば…、そう、伊賀忍者です。

半蔵が生まれたとき、服部家はすでに伊賀を離れて徳川に仕えていたため、彼が生まれたのは三河(現在の愛知県豊川市)でした。

しかし代々服部家の血筋が受け継がれてきた場所として、ゆかりの地と考えれば、仮の姿である芭蕉の出身地を伊賀としたことも不思議ではありません。

ただこれはそのほかの理由と比べるとインパクトが薄い感じも否めませんね。

わらべ歌『かごめかごめ』は芭蕉が作った唄で、徳川埋蔵金のありかを示すもの?

わらべ歌の『かごめかごめ』徳川埋蔵金のありかを示す唄だという都市伝説を知っていますか?

なんでも「かごめ」というのは星の形を示した六芒星ろくぼうせいを表す言葉で、家康にゆかりのある

・日光東照宮

・江戸城

・駿府城

・土岐

・明智明神

・佐渡金山

を結ぶと同じ六芒星になるとのこと。

で、唄の中で「籠の中の鳥」と歌われている場所に埋蔵金が隠されているといい、それが「六芒星のなかの鳥居のある場所」だというのです。

この場所が日光東照宮で、そこに徳川埋蔵金が埋まっているのではないか…といわれています。

そして一説にはこの唄を作ったのは芭蕉で、各地を渡り歩くなかで、子どもたちに伝えていったとされているのです。

芭蕉は家康から他国が歯向かわないように、徳川家の財力を示して回ることを命じられていたのかも…?

だとしたらわらべ歌のなかにその旨を忍ばせたのは、自身の身の上を人に悟らせないためか…はたまた子どもたちがこぞって歌えば浸透すると思ったのか。

いずれにしても巧妙ですね。

 

同一人物とするには時代が違いすぎる

と、ここまで服部半蔵と松尾芭蕉が同一人物とされるゆえんについて、さまざまな説を並べてきましたが、結論からいうとこの噂はやっぱり都市伝説にすぎません。

半蔵が生まれたのは1542年のことで、芭蕉がおくのほそ道の旅に出たのが1689年

半蔵が家康のもとを離れて芭蕉を名乗っていたのだとしたら、彼は当時147歳ということになります。

…これじゃあ徳川十六神将どころか、ただの化け物ですよね。

また服部半蔵というのは代々服部家の当主が名乗る名前なので、のちの代の半蔵が芭蕉を名乗ったとも考えられます。

しかしこのころの5代目半蔵はもう徳川家の人間でもありませんから、徳川の後ろ盾を得ながら旅をしたというのはまずないでしょう。

 

きょうのまとめ

松尾芭蕉はおくのほそ道の旅で、何か権力をもっていなければ、一般人には成し得ないような行動をたしかにいくつか起こしています。

その正体が徳川に仕えた服部半蔵で、その権威をもって各地を渡り歩いていたというなら、なんともロマンのある話ですが…。

最後に今回のまとめをしておきましょう。

① 松尾芭蕉はあり得ない速度で移動し、一般人は通れない関所もなんなく通り抜けた。徳川の支援や権力があったから?

② 芭蕉が『かごめかごめ』を広めることで徳川家の財力を各地に示して周っていた説がある

③ 服部半蔵と松尾芭蕉が同一人物なら、『おくのほそ道』のときには147歳。やっぱり単なる都市伝説?

…ちゃんと詰めてみると結局は都市伝説。

ちょっと残念ですが、妄想するのは自由です。

おもしろい小話をしたいときには使えそうなエピソードですね。

 

服部半蔵の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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