伊達政宗の命令を受け、遣欧使節団を率いヨーロッパへ向かった
支倉常長のお墓は、宮城県内に3箇所あります。
有名な武将のお墓が数箇所あるのは普通のことですが、
支倉常長の場合は少し違っています。
3つのお墓を見ると、不思議な謎が浮かび上がってくるのです。
では見ていきましょう。
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支倉常長のお墓の謎
支倉常長のお墓の謎とは何なのでしょうか。
詳しく見ていきましょう。
光明寺(こうみょうじ)
支倉常長のお墓があるお寺の1つは、光明寺です。
光明寺は、仙台城下の北方にに位置する北山五山の中の1つです。
北山五山は、仙台城の鬼門を守るために造られたとされ、
・東昌寺
・覚範寺
・資福寺
・光明寺
の5つの神社から成っています。
すべてが臨済宗のお寺で、覚範寺には伊達政宗の母である保春院のお墓もあります。
この光明寺の支倉常長の亡くなった日は、1621年(元和7年)51歳とされています。
支倉常長が日本に帰国したのは1620年(元和6年)です。
それから数年のうちに失意のうちに亡くなった、と言われているので、次の年に亡くなっているというのは、不思議なことではありません。
では次のお墓を見てみましょう。
円福寺(えんぷくじ)
2つ目のお墓は、宮城県川崎町支倉地区の円福寺です。
地名にもなっているとおり、円福寺は支倉家の所領だった場所です。
支倉常長の居城であった上楯城のふもとにあり、
円福寺の裏山を登っていくと、上楯城を散策することができます。
かなり大きな山城だったことが伺え、ここに住んでいた支倉家は、それなりの暮らしをしていたんだろうな、と思いを馳せることができます。
この円福寺の支倉常長のなくなった日は、1622年(元和8年)7月1日です。
光明寺とは約1年のずれがありますが、このくらいであれば歴史の誤差としては致し方ないことです。
ちなみに、ウィキペディアではこの死亡日を採用しています。
支倉常長メモリアルパーク
3つ目のお墓があるのは、宮城県大郷町にある支倉常長メモリアルパークです。
ここに支倉常長のお墓の謎があります。
支倉常長は帰国してから、この大郷に隠れ住んだと言われているのです。
この説を裏付けるように、支倉常長メモリアルパークの常長の亡くなった日付けは
1654年(承応3年)となっているのです。
光明寺の死亡日と比べると、なんと34年もの差があるのです。
ここまでくると歴史の誤差では済まないですよね?
過酷な旅から帰国した支倉常長でしたが、出国した時とは違いその頃の日本は鎖国体制が確立し、キリスト教は布教禁止となっていました。
藩主の命令を受けた、支倉常長の功績を表沙汰にすることは出来なかったのです。
そのため仙台藩は、常長は死んだと幕府に届けを出し、実際は大郷の地で静かに余生を送らせたと言われています。
この説が本当であれば、常長は84歳まで生きたことになります。
遣欧使節団の副使でもあったイエズス会のソテロの書簡には
「1621年に死亡した」
と書かれているため、帰国後数年で亡くなったのは間違いないとする説もあります。
賛否のある説ですが、支倉常長メモリアルパークには全国から多くの参拝者が訪れています。
きょうのまとめ
支倉常長のお墓について、いかがでしたか?
帰国後数年の51、2歳で亡くなったのか、84歳まで生きたのか、
謎は深まるばかりですが、この謎こそ歴史の最大の魅力ではないでしょうか。
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