仙台藩士・支倉常長。
伊達政宗の命を受け、
「遣欧使節団」を率いヨーロッパへ渡った人物です。
支倉常長とはどんな人物だったのでしょうか。
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支倉常長はどんな人?
- 出身地:羽州置賜郡(現在の山形県米沢市)
- 生年月日:1571年
- 死亡年月日:1622年8月7日(享年52歳)
- 遣欧使節団のリーダーとして、スペインと貿易交渉をするが失敗
支倉常長 年表
西暦(年齢)
1571年(1歳)羽州置賜郡で山口常成の次男として生まれる。(幼名、与市)
1578年(7歳)伯父の支倉時政の養嗣子(家督相続人となるべき養子)となる。
1592年(22歳)伊達政宗に従い朝鮮出兵に従軍。
1600年(30歳)関が原の戦い。
1612年(42歳)遣欧使節団の正使として、サン・セバスチャン号で浦賀より出航するも暴風のため遭難。一度、仙台へ戻る。
1613年(43歳)月の浦より、サン・ファン・バウティスタ号にて、再び出航する。
1615年(45歳)エスパーニャ国王フェリペ3世に謁見。その後、ローマ教皇パウルス5世に謁見。
1620年(50歳)フェリペ3世と交渉を続けるも断念、帰国する。
1622年(52歳)病死する。
支倉常長と遣欧使節団の目的とは
支倉常長と遣欧使節団の本当の目的とは何だったのでしょうか。
一緒に見ていきましょう。
遣欧使節団って?
そもそも遣欧使節団とは何なのでしょうか。
伊達政宗はメキシコとの貿易のために使節派遣することを幕府に願い出ます。
遣欧使節団が派遣されたのは1613年ですから、江戸幕府が成立していました。
なぜ徳川家康は、この遣欧使節団を許したのでしょうか。
家康はメキシコの「金銀の採掘」と「製錬技術」に強い関心を持っていました。
しかしスペイン領だったメキシコとの関係は豊臣秀吉が、
長崎で26人の宣教師や信者を処刑した「フェリペ号事件」で断絶していました。
また常陸へ漂着したスペイン船が帰郷することになった時に、
田中勝介という商人をメキシコに派遣しますが、
キリスト教禁止令が出ていた国ということもあって交渉には至りませんでした。
なので政宗がやってくれるなら、という思いがあったのかもしれません。
ヨーロッパへ。しかし交渉は失敗
支倉常長は藩主・伊達政宗の命を受けて、
1度目はサン・セバスチャン号に乗り、浦賀より出航しますが、
暴風に遭い座礁、頓挫し、仙台へ引き返します。
2度目は、1613年にサン・ファン・バウティスタ号で月の浦から出航しました。
遣欧使節団は支倉常長を正史とし、船乗りや武士150人と
宣教師ルイス・ソテロを含むスペイン人約30人を併せた180人余りでした。
7年に及ぶ時間を費やしましたが、
結果は失敗に終わりました。
しかし、常長に外交能力がなかったというわけではありません。
徳川家康が田中勝介を派遣した時と同様に、キリスト教禁止令が
交渉失敗の一番の原因だと言われています。
その頃の日本はキリスト教禁止令が出されており、そのことは遠くヨーロッパの国々まで知られていたのです。
遣欧使節団は目的こそ果たせませんでしたが、彼らの持ち帰った資料は歴史資料として日本初の国宝に認定されています。
支倉常長が選ばれた理由
支倉常長は伊達家の中でも中級に位置する藩士でした。
なぜ支倉常長が、遣欧使節団の正史という重役に選ばれたのでしょうか。
これには諸説あります。
・失敗したときのことを考えて、重臣ではない常長が選ばれた
・常長の父が罪を犯し、常長も同罪とされ裁かれる所だったので、失敗した場合や幕府から咎められた場合に責任を負わせるのに適任だと政宗が任命した
どれも史料がないため真実は分かりません。
しかし、政宗はこの遣欧使節団に並々ならぬ熱意を持っていたので、
きちんと常長の能力を評価して正史に選んだのでしょう。
遣欧使節団の本当の目的は・・・
遣欧使節団が日本を発ったのは1613年です。
この時は大坂の陣の前で、徳川幕府の力も確固たる物ではないと政宗は見ていました。
徳川幕府の体制が揺らぐようなことがあれば、天下を取るチャンスがあると言うことです。
その時に備えて、スペインと同盟を結ぶことが政宗の本当の目的だったと言われています。
スペインと同盟を結べば、最先端の武器や戦術が手に入ります。
あわよくばスペインの軍事力を利用することも考えていたかもしれません。
政宗はキリスト教の布教を許すかわりに、スペインと友好を図りたい、
自分はキリスト教の守護者であると言った書状を常長に持たせています。
またその書状には「奥州王伊達政宗」と書き花押を押しています。
「王」と言う言葉に深い意味があるのかと、つい考えてしまいます。
支倉常長にまつわるエピソードや伝説
支倉常長にまつわるエピソードや伝説などをご紹介します。
日本人初の偉業
遣欧使節団は目的を果たす、と言う意味では失敗しましたが、
支倉常長は日本人初の偉業を多く残しています。
・フランシスコ派カトリック教徒
・ローマ貴族の称号(アジア人でただひとり)
支倉常長ら遣欧使節団の一行は、日本人で初めて太平洋と大西洋を横断しました。
支倉常長はエスパーニャ国王フェリペ3世に謁見した際に、国王臨席のもと洗礼を受け、キリスト教徒になっています。
そこでドン・フィリッポ・フランシスコと言う洗礼名を授けられました。
日本人初のフランシスコ派カトリック教徒の誕生しました。
さらにローマでは、公民権を与えられ、貴族に列せられます。
ローマ貴族の称号を与えられたアジア人は、支倉常長ただ一人です。
常長の懐紙が大人気?!
懐紙とは現代で言えば、ポケットティッシュのようなものです。
ある程度身分のある武士が、懐に入れて持ち歩いていました。
もちろん支倉常長も懐紙を持ち歩いていた一人です。
常長が鼻をかんで捨てる懐紙が現地の人に大人気で、常長一行が来るのを待ち構えて、懐紙を捨てると我先にと拾ったというエピソードが残っています。
当時のヨーロッパでは、手かハンカチで鼻をかむのが普通で、日本のように使い捨てする文化はありませんでした。
薄く絹のような懐紙は、当時とても高級なものに見えたそうです。
そんなものを一度使って捨ててしまう、日本の文化の高さに当時の人は驚いたようです。
明治になって功績を認められる
遣欧使節団と支倉常長の名前は表舞台に上がることはありませんでした。
常長が帰国したときには、日本は本格的にキリスト教が禁止されていました。
幕府から咎められることを恐れて、仙台藩も公にはできなかったのです。
常長と遣欧使節団に光が当たるのは、250年後の明治時代になってからです。
明治時代初め政府により派遣された「岩倉具視使節団」は、日本から遠く離れたヨーロッパで常長の書状を発見します。
自分たちよりずっと昔の250年も前の江戸時代にヨーロッパに来ていた日本人がいたことを初めて知ったのです。
常長がローマ教皇と謁見したときの態度は、実に堂々としていたと言います。
臆することなく西洋の大国との交渉の場に立ったサムライの存在に岩倉具視一行は、感激と尊敬の念を持ちました。
西洋に追いつけ追い越せと言われた明治時代の彼らは、
常長の功績にきっと勇気付けられ、日本人の誇りを垣間見たのではないでしょうか。
きょうのまとめ
最後までお読み頂きありがとうございました。
支倉常長についていかがでしたでしょうか。
支倉常長とは?
① 遣欧使節団として海を渡る偉業を成し遂げるも、交渉は失敗
② 本当の目的は、メキシコと同盟を結ぶことだった?
③ 日本人初の偉業をいくつも持つ
④ 常長の懐紙が大人気だった
⑤ 明治時代になり功績を認められた
今から400年以上も前の船旅は想像以上に過酷なものだったでしょう。
その功績が陽の目を浴びることができて本当によかったです。
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