現在の北アフリカ、チュニジア辺りに存在していた都市国家、カルタゴ。
そこにかつて、ハンニバル・バルカという一人の将軍がいました。
戦術の天才と言われ、第二次ポエニ戦争での功績により、ローマ帝国最大の敵と言われている人物です。
ハンニバル・バルカとは一体どのような人物だったのでしょうか。
今回はその生涯について、主な功績やエピソードと共に探っていきましょう。
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ハンニバル・バルカはどんな人?
- 出身地:カルタゴ帝国(現在のチュニジア辺り)
- 生年月日:紀元前247年
- 死亡年月日:紀元前183年~182年(享年64歳~65歳)
- カルタゴ帝国の将軍。戦術の天才。ローマ帝国最大の敵。
ハンニバル・バルカ 年表
紀元前(年齢)
247年(0歳)第一次ポエニ戦争後のカルタゴ帝国に誕生。
238年(9歳)ローマに対する永続的な憎悪の誓いを立てた後、父ハミルカル・バルカに連れ立ってイベリア半島(現在のスペイン辺り)への遠征に赴く。
228年(19歳)父親の死により姉夫婦の元に身を置き、騎馬隊の指揮を執る。
221年(26歳)義兄が暗殺され、イベリア半島で軍司令官となる。
218年(29歳)ローマ帝国との第二次ポエニ戦争開始。アルプスを越えてイタリアに進軍。
216年(31歳)「カンナエの戦い」で圧倒的な勝利を収める。以降イタリア半島滞在中に戦力は衰えていく。
207年(40歳)ローマ軍にカルタゴ本国とのパイプを絶たれる。
202年(45歳)「ザマの戦い」で完全に敗北する。
196年(51歳)ローマ帝国の支配下で、投票によりカルタゴの行政長官に就任。
183年~182年(64歳~65歳)シリア周辺に亡命した後、毒を煽り自殺。
ハンニバル・バルカの生涯
ここからは早速、ハンニバル・バルカの生涯について主な功績と共にご紹介していきます。
宿命
ハンニバル・バルカが誕生したのは紀元前247年。
北アフリカに位置していた都市国家カルタゴで生まれた彼は、誕生したその瞬間から、戦に身を投じる宿命を背負っていました。
と言うのも当時は、三度に渡り繰り広げられたポエニ戦争における、第一次と二次の境目。
新興国として徐々に台頭してきた共和制ローマと、その覇権を争い緊迫した関係が続いている最中でした。
シチリア島の領有を巡って始まった第一次は20年以上に渡って続き、紀元前241年に和平締結によって一時休戦。
しかし事実上の敗北となったカルタゴは、領土や賠償金等の多大な負担を背負うことになっていました。
ハンニバルの父親のハミルカル・バルカは、この当時シチリアで総督を担っていた人物であり、それ故にローマに対する憎しみは人一倍でした。
そんな時世と父親のもとに長子として生まれ育ったハンニバル・バルカは、弟たちと共に少年時代から陣営暮らしに明け暮れます。
そして少年時代のハンニバルは、既にその頃には有能な将軍となるべくその片鱗を覗かせていました。
剣術や馬術に優れていただけでなく、貴族としての教養も身に着けていたとされ、文字通り文武両道の道を歩んでいったのでした。
若き将軍
ハンニバルは父親が死去すると、20歳を目前にして姉婿のもとで騎馬隊の指揮官となります。
そして姉婿が暗殺されると、29歳の時にイベリア半島(スペインの辺り)におけるカルタゴ人将校団の将軍に任命されたのです。
少年時代からの数々の経験や彼自身の才能により、その若さで既に周囲からの信頼は絶大なものとなっていました。
またハンニバル・バルカは戦術における才能だけでなく、政治家としての才能も持ち合わせていました。
その思考力と行動力が、やがてローマ帝国を追い詰めることとなったのです。
ハンニバル戦争
イベリア半島で将軍に任命されて数年後、カルタゴはローマとの間で再び小国の帰属問題を巡り衝突。
これを機に紀元前218年、第二次ポエニ戦争が勃発します。
将軍として兵を率いることになったハンニバル・バルカは、ここで思いもしなかった方法によってローマ帝国を窮地に陥れます。
それが、象を連れたアルプス越えです。
・騎兵1万2千
・象37頭
という戦力を引き連れ、抜かりない計画により直接イタリアに進軍していたのです。
そうとは知らないローマ帝国はその戦場にイベリア半島や北アフリカを想定しており、それに向けた準備しかしていませんでした。
しかし彼らがハンニバルの進軍を耳にしたのは、既に最大の難所だった山脈を越えた後だったのです。
ハンニバル率いるカルタゴ軍は北イタリアから徐々に進軍し、南イタリアに至るまで快進撃を見せます。
そして「カンナエの戦い」において、ハンニバル・バルカは歴史に名を遺す大勝利を収めました。
出鼻をくじかれたローマ軍は、数で劣り傭兵(雇われた兵)の集まりでしかなかったカルタゴ軍に敗北したのです。
この戦争は別名「ハンニバル戦争」とも言われています。
栄枯盛衰
ローマ軍を圧倒したハンニバル・バルカ。
しかし彼のその後の選択が、カルタゴ衰退の始まりとなりました。
カンナエの戦い以降、ローマの陥落まであと一歩に迫ったところで、彼はその進軍を辞めてしまったのです。
・首都を攻め落とすにはカルタゴ軍が疲弊し過ぎていたこと
これらの理由がハンニバルの判断を誤らせる要因となりました。
その後は消耗戦に突入し、カルタゴ軍は約15年間イタリアに留まることに。
祖国から離れた地での長期戦は、彼らにとって不利なものとなっていきます。
そしてこの期間で徐々に勢力を巻き返したローマ軍によって、カルタゴ本土からの支援の道が断たれると、紀元前202年「ザマの戦い」においてカルタゴは完全に敗北することとなりました。
その後のカルタゴはローマの同盟国になることを強要され、またも膨大な賠償金を支払うことに。
ハンニバル・バルカはその後、すっかり小国となったカルタゴの再建に奔走しました。
しかし彼の台頭を懸念するローマ人たちに命を狙われ亡命。
60代半ばで自ら毒を煽り命を絶ったのです。
ハンニバル・バルカにまつわるエピソードや伝説
ここではハンニバル・バルカの人物像にもう少し迫るために、彼にまつわる逸話をご紹介していきます。
憎悪の誓い
ローマ帝国との戦いに生きた将軍、ハンニバル・バルカ。
彼のローマに対する思いがうかがえるものに、少年時代のエピソードがあります。
父親がカルタゴ本土からイベリア半島へ遠征に行くことになった際、ハンニバルはこの父ハミルカル・バルカについていくことになりました。
その時ハンニバルと二人の弟たちは、彼等の国の最高神を祭る祭壇の前で、ローマへの永遠の憎悪の誓いを立てることを命じられたのです。
彼等は戦術的才能や頭脳の他に、深い憎しみまでもをこの父親から引き継いだのでした。
ちなみにこれは、ハンニバル9歳の時の出来事です。
人望
ハンニバル・バルカの将軍としての能力を見る際、戦術や頭脳以外に外せないのがその人望の厚さです。
前述した様に彼の軍は傭兵から成り立っていました。
つまり、軍人として育ち誇りをもって国のために戦争に参加していたローマ人の兵士とは異なり、カルタゴ軍は生活費のために集まった雇われ兵士だったのです。
そんなバックグラウンドも様々な人々を統率し、彼等の戦意を失わせることなくイタリア本土に攻め入ることができたのは、やはりハンニバル・バルカという人物に人々を納得させる力があったということです。
きょうのまとめ
今回は、古代ローマ最大の敵となったカルタゴの将軍、ハンニバル・バルカについて見てきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、ハンニバル・バルカとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると
① カルタゴ帝国の将軍。
② 第二次ポエニ戦争でローマ帝国を破滅の危機に追い込んだ。
③ 文武両道に秀で人望も厚かったが、最後はローマに敗れた。
ハンニバル亡き後に勃発した第三次ポエニ戦争。
この敗北によってカルタゴ帝国は完全に滅亡します。
徹底的に焼き払われ焦土と化したその地は、かつてのハンニバルの様な脅威が二度と台頭することのないよう、念を込めたローマ帝国の意思とも考えられます。
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