後藤又兵衛といえば、「大坂夏の陣」で豊臣方に仕え、わずか2,800人の兵で2万を超える大軍に立ち向かった逸話が有名です。
状況を想像するだけで「どんな精神力の持ち主だ…」と圧倒されてしまいますよね。
そんな壮絶な戦いを繰り広げた彼ですが、そもそも大名でもありませんし、この逸話を知っているだけで、具体的にどんな人物か知らない人も多いでしょう。
彼は戦の腕はもちろんのこと、部下からの人望が非常に厚い武将でした。
今回はその生涯から、後藤又兵衛の人物像に迫ってみましょう。
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後藤又兵衛はどんな人?
- 出身地:播磨国神東郡山田村(現在の兵庫県姫路市)
- 生年月日:1560年5月5日
- 死亡年月日:1615年6月2日(享年56歳)
- 豊臣秀吉の側近・黒田官兵衛が重宝した猛将。死をも恐れぬ豪傑で、「大坂夏の陣」ではわずか2,800人の兵を率い、2万を超える軍勢を相手にした。
後藤又兵衛 年表
西暦(年齢)
1560年(1歳)播磨国神東郡山田村(兵庫県姫路市)にて、別所家家臣の後藤新左衛門の次男として生まれる。父が幼くして亡くなったため、その後は姫路城主・黒田官兵衛に育てられた。
1578年(19歳)官兵衛が有岡城に幽閉された際、親族が解放に協力しなかったため黒田家を追放される。
1586年(27歳)主君の仙石秀久が失脚したのをきっかけに、黒田家重臣・栗山四郎衛門の取り立てで黒田家に戻る。
1592年(33歳)豊臣秀吉による朝鮮出兵に参加。嘉山城・晋州城攻略において一番槍の武功を挙げる。
1600年(41歳)「関ヶ原の戦い」に参加。石田三成隊の猛将・大橋掃部を一騎討ちで破るなどの活躍を見せ大隈城主に命じられると、1万6千石の領土を得た。
1606年(47歳)細川家と懇意にしていることを理由に主君・黒田長政とのあいだに不和が生じ、黒田家を出奔。以降、岡山藩の池田忠継に仕える。
1611年(52歳)黒田長政の根回しで職を失い、京都で浪人生活を送る。
1614年(55歳)豊臣家家臣・大野治長の誘いで「大阪冬の陣」に参加。6,000人の兵を任され、采配の腕から徳川家康にも警戒される。
1615年(56歳)「大坂夏の陣」において国分村での迎撃作戦を敢行。2,800人の兵を率いて水野勝成・伊達政宗などの2万を超える大軍と戦い、乱戦のなか死亡。
後藤又兵衛の生涯
1560年のこと、後藤又兵衛は現在の兵庫県姫路市にあたる播磨国神東郡山田村にて、播磨の大名だった別所氏の家臣をしていた後藤新左衛門の次男として生まれました。
本名は後藤基次といい、又兵衛は通称。
平均身長の低かった戦国時代において、180cmを超える巨漢で戦場でも特に目立っていたといいます。
秀吉の名参謀・黒田官兵衛の影響を受けた幼少期
又兵衛の幼少期はあまり記録が残っておらず、その生い立ちには諸説あります。
7~8歳ごろに父親を亡くし、以降は当時の姫路城主・黒田官兵衛に育てられたとされています。
官兵衛はのちに豊臣秀吉の側近として仕え、特に政治面において卓越した手腕を発揮した人物。
部下からの人望が厚く、戦においても猛将というよりは兵を鼓舞することで勝利を手にしてきた人でした。
そんな官兵衛に育てられた又兵衛もまた、部下の面倒見がよく、新参の兵に対しても
など、こと細かにアドバイスをしたとのこと。
また「風呂のときに数えると53もの刀傷があった」などと記録が残っていることから、裸の付き合いをするぐらい近い距離で部下と接していたこともわかります。
このように人となりにおいて官兵衛に多大な影響を受けていた又兵衛。
あるとき彼はとある事件の飛び火を受けて、この敬愛する師と別れることになってしまいます。
官兵衛の有岡城幽閉事件
又兵衛の師・黒田官兵衛は1575年ごろから、主君の小寺政職とともに織田家の配下として仕えていました。
そして1578年のこと、同じく織田家に仕えていた荒木村重が信長に謀反を起こします。
村重は毛利家と手を結んだうえで有岡城に籠城。
官兵衛はこのとき主君の政職に村重の説得を命じられ、有岡城へ向かいました。
しかし実は政職も信長に謀反を起こそうとしていたうちのひとりで、官兵衛を説得に向かわせたのは、信長への忠誠心が強い彼を邪魔に思ったことによる罠だったのです。
こうして官兵衛は有岡城にて囚われの身となり、そこから1年間、幽閉されてしまいます。
このとき黒田家の家臣たちは官兵衛を解放しようと奔走します。
しかし、又兵衛の親族が署名を断ったため連帯責任を問われ、又兵衛は黒田家を追放されることになるのです。
黒田家に返り咲き、秀吉の朝鮮出兵や「関ケ原の戦い」で活躍
官兵衛の幽閉事件以来、黒田家を追われ、讃岐国の大名・仙石秀久に仕えていた又兵衛。
しかし1586年の九州征伐の際に主君の秀久は失脚し、大名の座を剥奪されてしまいます。
この経緯から行き場を失った又兵衛は、黒田家の重臣・栗山四郎衛門の取り立てで黒田家へ戻ることになるのです。
当主の官兵衛もこれを大いに喜んだといいます。
親族の行いから一時は追放されてしまいましたが、黒田家としては又兵衛を手放すのは惜しかったのでしょう。
黒田家へ舞い戻った又兵衛はそこから奮闘し、
・1600年の「関ケ原の戦い」で石田三成隊の猛将・大橋掃部を一騎討ちで破る
など、数々の武功を残しました。
関ケ原の戦いでは官兵衛の嫡男・長政を軍事面でサポートし、そのおかげで彼は徳川軍への参加者を募る調略に力を入れられたともいいます。
徳川家康が天下を統一すると、長政はその功績から筑前(福岡)52万石の領土を与えられ、それに伴って又兵衛も1万6千石を領有する身に。
しかし実のところ、長政と又兵衛の関係はうまくいっておらず、1604年に官兵衛が死没したことで事態は一変してしまうのです…。
長政との不和で黒田家を出奔
1606年、黒田官兵衛が死没してから2年後のこと、又兵衛は黒田家を自ら出奔しています。
理由は主君・黒田長政との関係が悪化したことにありました。
筑前の大名となった長政は隣国である豊前の大名・細川家との関係がよくなかったのですが、それに関わらず又兵衛は細川家とも懇意にしており、長政に睨まれてしまいます。
又兵衛としては「関ケ原で共に戦った仲間」という感覚で、他意はなかったのでしょうが、長政はこれを「細川家と内通している」と非難したわけです。
このとき長政が難色を示したのは、彼が兼ねてから又兵衛をよく思っていなかったからだともいいます。
長政は官兵衛から
と言われており、周りから又兵衛が引き合いに出されていることも感づいていました。
官兵衛の人望は息子である自分には受け継がれず、いわば養子のような立ち位置の又兵衛に受け継がれている。
主君としては嫉妬してしまう気持ちもわかりますね…。
こうして長政との不和から黒田家を後にした又兵衛は、小倉藩の細川忠興のもとに身を寄せようとしますが、細川家と対立している長政はこのことでさらに激怒。
両家は一触即発状態になり、大御所の家康まで駆り出される事態に…。
その後、長政によって「奉公構」
(武家が家中の武士(家臣)に対して科した刑罰の一つ。 構は集団からの追放を意味するが、旧主の赦しがない限り将来の仕官(雇用)をも禁止される)
という、又兵衛を幕府の職に就かせない根回しがされたため、彼は浪人生活を余儀なくされてしまいます。
「大坂の陣」にてもう一度戦場へ
職を失い京都で浪人生活を送っていた又兵衛でしたが、1614年のこと、もう一度戦場へ返り咲く機会がやってきます。
徳川vs豊臣の最後の戦い「大坂冬の陣・夏の陣」です。
又兵衛を豊臣方の武将として誘ったのは、豊臣家家臣の大野治長。
このとき豊臣家は秀吉の嫡男・秀頼の代で、天下人の座も徳川家康に移っており、かつての面影はないほどに衰退していました。
そのため秀吉の代で懇意にしていた大名は見向きもせず、豊臣家は人員の募集に苦戦していたのです。
集まった兵は関ケ原の戦いで地位を失った元大名や浪人ばかり。
その寄せ集め集団を統率する人材を探していた治長は、朝鮮出兵や関ケ原の戦いで大活躍した又兵衛が浪人をしているという噂を聞きつけてやってきたのです。
こうして豊臣方の武将として大坂の陣に参戦した又兵衛は、期待通り
・夏の陣では柏原市国分村の狭い地形を利用し、自軍の10倍の大軍相手に奮戦する
といった活躍を見せます。
しかし最後は徳川勢の圧倒的な数に押され、又兵衛は戦いの最中没することに。
自軍の10倍の大軍にも臆さなかった彼は戦いのなかで
と部下に語っていたといいます。
きょうのまとめ
後藤又兵衛は戦にめっぽう強い英傑として語られることが多いですが、彼の人生をいつも左右していたのは、なにより黒田官兵衛から譲り受けた人望の厚さでしょう。
悪い面では長政との不和の一因となり、黒田家を出奔する理由となったり…かと思えば、大坂の陣の劣勢に立ち向かえたのは部下を鼓舞する力があってこそだといえます。
最後に今回のまとめをしておきましょう。
① 後藤又兵衛は黒田官兵衛の後を継ぐ、部下からの人望が厚い武将だった
② 官兵衛の跡継ぎ・黒田長政とはうまくいかず、一時は職を失うことに
③ 大坂の陣では豊臣方につき、寄せ集めの兵を率いて10倍の大軍を相手に戦った
戦いに身を置き続ける日々かと思えば、ある日突然追放され、職を失ってしまったり…又兵衛の生涯は、才能に恵まれていた割に浮かばれない印象を受けますね。
後世に英傑として語り継がれていることがせめてもの救いでしょうか。
・川を渡るときは鎧を槍にかけ、飯は丸めて持っておけば、敵に不意を突かれて慌てずに済む