後藤又兵衛の壮絶な最期|圧倒的劣勢でも勝ちを諦めなかった猛将

 

1615年、豊臣家と徳川家による「大坂夏の陣」にて、10倍の兵力をもつ徳川軍相手に孤軍奮戦し、名誉の戦死を遂げた

後藤又兵衛ごとうまたべえ

誰がどう見ても、負けることが明らかなこの戦いですが、むしろ豊臣勢のなかでは彼が唯一、大坂夏の陣に勝機を見出していました。

そしてその最期にしても、又兵衛らしい一本筋の取った死に様を見せています。

彼は圧倒的劣勢にどう立ち向かおうとしたのか、そしてどう死んでいったのか。

今回はその最期の戦いに迫っていきましょう。

 

「大坂冬の陣」の和睦

後藤又兵衛

後藤又兵衛
出典:Wikipedia

1614年に行われた「大坂冬の陣」は、兵力こそ徳川軍が上回っていたものの、大坂城の堅牢な守備力に阻まれ、結局は和睦の流れで終結しました。

しかしこれは実は家康の罠で、この和睦の条件で豊臣軍はその守備力の要を失うことになります。

大坂城が難攻不落とされていたのは、城の周囲に張り巡らされた二重構造のほりが、どんな兵力をもってしても乗り越えられなかったから。

大坂城は本丸を中心にして外側に向かい、「二の丸」・「三の丸」という建物が建てられており、それぞれの外側に濠が作られていました。

家康は「三の丸の外濠を埋めること」を和睦の条件にしたのですが、工事を始めるとその約束を破り、なんとすべての濠を埋め立ててしまったのです。

こうして豊臣家は城の守備力という唯一の武器を失い、絶対に勝ち目のない状況のなか、「大坂夏の陣」に挑まざるを得なくなるのでした。

 

最期の戦い「大坂夏の陣」

本丸が丸裸の状態になった無防備な大坂城では、豊臣家得意の籠城作戦も通用しません。

かといってまともに戦おうとしても、兵力は徳川軍のほうがずっと上…。

劣勢をくつがえす奇策

この劣勢をくつがえす奇策を考案したのが、又兵衛でした。

彼が大坂夏の陣で考えた作戦は、大坂城から20キロほど離れた地点、大和国(奈良)との国境にある国分村を戦場にするというもの。

国分村は以下のような特徴をもっていました。

・道が狭く大軍を展開しにくい

・丘陵地帯を抱えているので、待ち伏せして上から敵を迎え撃てる

又兵衛は国分村の地理を熟知しており、「城がダメなら地形を利用した戦いに持ち込もう」と考えたわけです。

徳川勢が大坂に攻め込むにはここを通らざるを得ず、これは兵力で劣る豊臣家にとって唯一、勝機を見出せる作戦でした。

これには豊臣方の武将たちも「良案だ」と称賛したといいますが…

作戦は不運にも失敗してしまうのです…。

濃霧に見舞われ作戦は失敗…?

国分村で徳川勢を迎え撃つ作戦が決行されたのは1615年6月2日のこと。

明朝、現地の道明寺という寺に又兵衛の隊を筆頭とする

・明石全登たけのり

薄田兼相すすきだかねすけ

・真田幸村

・毛利勝永

など、豊臣側の隊が集結する手筈になっていました。

しかしこの日は濃霧に見舞われ、定刻通りに道明寺へ辿り着けたのは又兵衛の軍だけ。

徳川軍は容赦なく進軍してきますが、後続は待てど暮らせどやってきません。

そして徳川軍の先発組・水野勝成隊が、ついに国分村に差し掛かったという報告が入ってきます。

こうして又兵衛は自軍の2,800人のみを率いて、敵を迎え撃つことを決断するのです。

窮地に立たされても家康の誘いに乗らなかった又兵衛

実はこの国分村の戦いの前に、家康は又兵衛に使者を送り

家康
徳川方につくなら、報酬として播磨はりま一国を与える

と、誘っていたのだとか。

しかしこれを聞いた又兵衛は

又兵衛
一度仕えると誓った主君を裏切り、強者につくのは又兵衛の生き方ではありません

と、誘いを断ったといいます。

単身、徳川勢に立ち向かったことといい、死を恐れない固い意志を感じさせられますね。

 

総勢2万以上の徳川軍相手に2,800の兵力で奮戦

覚悟を決めた又兵衛は国分村の丘陵地帯・小松山に陣取り、徳川軍を迎え撃ちます。

このときその場に居合わせた豊臣軍は又兵衛率いる後藤隊2,800人のみ。

対する徳川軍は

・水野勝成隊

・本田忠政隊

・松平忠明隊

・伊達政宗隊

が後から後から到着し、総勢2万を超える兵力を展開します。

又兵衛はこれに丘陵地帯の地形を使って対抗。

上ってくるのに時間がかかる相手を鉄砲で怯ませ、隙をついて馬や歩兵で一気に攻めかかるという戦法を駆使し、約5時間も戦い続けたといいます。

作戦も巧みですが、なにより敵わないことがわかっていながらも、部下たちが怖気づかずに又兵衛に従ったことがすごい…。

後藤隊の厚い信頼関係を感じさせられる戦いです。

最期は秀頼から授かった脇差で首を討たせた

伊達政宗

5時間に渡って徳川軍に抵抗した又兵衛でしたが、ついに敗戦のときがやってきます。

前線で戦っていた又兵衛は、伊達政宗の鉄砲隊の餌食となり、重症を負って動けなくなってしまったのです。

もはや討たれるのは時間の問題。

しかし大将の首を敵に持って行かれることは、武士として絶対に避けなければならない恥です。

又兵衛はこのとき、豊臣秀頼から授かった脇差の刀・行光ゆきみつを近くにいた部下に差し出し、

又兵衛
拙者の首を落とせ

と命じます。

「敵にやられるぐらいなら主君から授かった刀で死のう」というのでしょうか。

このとき介錯を頼まれた部下は、乱戦のため又兵衛の首を持ち帰ることができませんでしたが、代わりにこの行光と軍旗を形見として秀頼に渡したといいます。

最期まで主君への忠誠を貫いた、又兵衛らしい死に様ですね。

 

きょうのまとめ

圧倒的劣勢においても決して勝つことを諦めず、率先して作戦を考案した後藤又兵衛。

作戦が失敗したあとも、その抵抗を見る限り、彼は勝つことを諦めていなかったのでしょう。

信念を貫いて死んでいくその姿には、多くの人が戦国武将に求める男気が詰まっています。

最後に今回のまとめです。

①大坂夏の陣で、後藤又兵衛は勝ち目のない豊臣軍に、地形を利用した奇策で勝機を見出した

②濃霧に見舞われて後続の到着が遅れ、作戦は失敗。後藤隊のみで徳川軍に挑むことに…

③10倍の兵力をもつ徳川軍に5時間の奮戦。最期は主君・秀頼の刀を部下に託し、自ら命を絶った

死ぬことが怖いのは、やり残したことがあるからだとよくいいます。

それこそ又兵衛が死をも恐れなかったのは、この戦いで彼が最善を尽くし、やり残したことがひとつもなかったからかもしれませんね。

 

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