承平天慶の乱の主役二人。藤原純友と平将門

 

承平天慶じょうへいてんぎょうの乱とは、平将門の乱藤原純友の乱のこと。

平安中期の元号の承平から天慶年間に起きた、別人による違う場所で起こった2つの反乱のことです。

しかし、これらの2つの乱とその張本人たちには、いろいろな共通点がありました。

 

似ている二人。藤原純友と平将門

藤原純友

出典;Wikipedia

二人のプロフィール、そして置かれた状況や反乱について比べてみましょう。

純友と将門は同時代の人たち

藤原純友と平将門の生年は明確になっていません。

藤原純友の生年は893年ではないかと考えられており、平将門の生年が903年と言う説を信じれば、純友のほうが10歳年上です。

ただし、平将門の884年生まれ説を採れば、逆に将門のほうが9歳年上となります。

どちらにせよ、同時期に生きた二人でした。

二人は良家の出身

藤原純友は藤原氏の中で最も繁栄した藤原北家出身です。

関白となった藤原基経もとつねは、彼の大叔父です。

公家として文句なしの良い家柄でした。

一方、平将門は、桓武天皇の血を引く平氏の祖、平高望たかもちの孫でした。

血筋は最高級です。

つまり、両者は紛れもなく良家の出でした。

苦しい現状と、冴えない将来展望から不満が爆発

藤原純友父親に早世されました。

父の後ろ盾がなくなると朝廷で出世できません。

そこで地方官として働き、そのうち伊予に土着。

しかし、瀬戸内で海賊の鎮圧に尽力しても手柄を認められず、それが不満でした。

そのため、むしろ彼が海賊となって瀬戸内の受領たちに立ち向かったのが乱の始まりでした。

平将門は最初朝廷に仕えていました。

しかし、彼も出世の望みはなく、父親が早世したこともあって関東に帰ります。

その時、父親の遺領などを巡って親族間での争いが勃発。

勝者となった将門は、受領によって税を搾り取られて苦しむ土地の人々から頼られる存在となり、関東の受領に対抗したのでした。

反乱がおきた時期

藤原純友は、936年頃から海賊頭領として活動を始めました。

939年に藤原文元ふみもとからの要請に応じて受領を攻撃。

それまでの海賊鎮圧の勲功を認めることを要求しました。

平将門は、931年頃から一族内の紛争が始まり、939年に受領へ反発する者を助ける形で対抗勢力として立ち上がりました。

つまり二人の反乱は、場所は異にしながら同じ年に重なって起きています。

ただ、平将門の乱は2ヶ月で終結し、藤原純友の乱は終結までに2年かかりました。

何に対して反乱したの?

将門も純友も、直接対決したのはその土地の受領とでした。

彼らは地方官として租税の徴収の権限があり、国内を自由に支配しました。

地方の富をひたすら吸い上げる受領。

苦労を強いられる人々の怒りは爆発します。

純友や将門は、その頃地元で抜きん出た武力を持っていました。

そこで、彼らは自分たちの恵まれない境遇に加え、困っていた人々に助けを求められたこともあって反乱を引き起こしたのです。

興味深いことに、二人とも朝廷と真っ向勝負するよりも、対等に話しをする力が欲しかったわけですが、結果として朝廷に弓引くこととなり、逆賊と呼ばれました。

 

純友・将門の共謀説

上記のように共通点を多く持つ二人は、実は共謀して同時に反乱を起こしたのではないか、と当時の貴族たちは噂しました。

純友と将門は、秘密裏に比叡山で落ち合い、平安京を見下ろしながらこんな約束をしたというのです。

「(2人が共に京都を制圧した暁には)将門は王孫なれば帝王となるべし、純友は藤原氏なれば関白とならむ」
と。

しかし、これは史実ではありません

ただ、こんな噂をされるほど二人がほぼ同時に起こした反乱は、朝廷を驚愕させたのです。

 

承平天慶の乱の前と後で何が変わったのか

ひと言で言えば、これらの乱の後に武家の存在感が増したことです。

参議・藤原忠文は、平将門の乱の際に征東大将軍、藤原純友の乱の時には征西大将軍として鎮圧のために派遣されましたが、活躍できませんでした。

結局、平貞盛と藤原秀郷が平将門を討伐し、源経基みなもとのつねもと小野好古おののよしふるが藤原純友を討ったのです。

彼らは全て軍事貴族でした。

これらの乱で朝廷は、中央の無力さを実感し、地方武士の力を見直すことになりました。

のちには地方武士も宮中の警備などに登用されるようになったのです。

この二つの乱のおかげで地方武士たちに活躍の場ができたのです。

 

きょうのまとめ

今回は、藤原純友と平将門について、比較してご紹介いたしました。

藤原純友と平将門は

① 共に高貴な生まれだったが、後ろ盾がなく出世の望みを断たれた不遇の人たちだった

② ほぼ同時に瀬戸内と関東で朝廷への反乱を起こしたが、共謀したわけではない

③ 乱後、朝廷に地方武士たちの力を認めさせた

武家政権にはまだほど遠い段階ですが「承平天慶の乱」とは、武士台頭の予兆というべき出来事でした。

 
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku