永楽帝が北京に首都を移した理由と2つの新たな歴史的建造物

 

明が建国した時の首都はどこかわかりますか。

ヒントとして初代皇帝朱元璋はこのあたりの出身です。

元時代末の混乱期にも拠点として勢力を広げてゆきました。

長江沿岸。

正解は南京です。

しかし、朱元璋の子であり、3代皇帝の永楽帝えいらくてい北京に都を移します。

いったいなぜ?

そして、永楽帝が北京に築き上げた中国を代表する建造物を2つとはいったい何でしょう。

 

永楽帝が北京に首都を移した理由

永楽帝 朱棣
出典:Wikipedia

1399年から第2代建文帝との間で繰り広げられた血みどろの内戦は3年でようやく終わりを告げました。

永楽帝は首都金陵(今の南京)に晴れて入城、皇帝に即位します。

そして、その翌年には北京を新たな首都に決定。

着々とその準備を進めてゆきます。

ここで気になるのは

「なぜ永楽帝がわざわざ首都を北京に変えるのか」

ということです。

有力な説は3つあります。

① 永楽帝の元々の本拠地が北京だから

永楽帝が燕王時代、あてがわれていた領地の本拠地でした。

なので、何かとなじみがいい、ということです。

② 南京はもと敵地で居心地が悪いから

永楽帝は皇帝の正統継承者である建文帝から武力で政権を奪いました。

これは当時の儒教的考えからすると、あまりいいことではありません。

しかも、建文帝は政治が優しかったので人々に人気がありました。

永楽帝にとってついこないだまでの敵の本拠地はやはり居づらいものです。

③ モンゴル対策

モンゴルは朱元璋によってかなり北に追いはらわれました。

しかし、まだモンゴル高原になかなかの強さで残っております。

明側とすれば主力を北に置くと、彼らにより対処しやすくなります。

あるいは、

「私は優しい文治政治は無理だ(役人などがあまり味方してくれないし)。それよりかは対モンゴル戦争で成果を出せる人間だ。何とかそっちでがんばってみんなに認めてもらおう。」

という人知れぬ思いがあったのかもしれません。

 

永楽帝が北京に築いた歴史的建造物2つ

さて、永楽帝が北京に新たに築き上げた中国を代表する2つの建造物があります。

2つとも世界遺産です。

それは……?

紫禁城

まず1つ目に紫禁城しきんじょうです。

皇帝の宮殿です。

今は故宮博物院こきゅうはくぶついんになっております。

建造初めから出来上がるまで14年かかっております。

今ある木造建築物の中で世界最大。

私もむかし訪れたことがありますが、とにかく大きいです。

ちなみに永楽帝時代のものからはだいぶ改築されております。

紫禁城とはそもそも“紫微垣しびえん”、つまり北極星周りの宇宙を再現しております。

皇帝は北極星にあるもの。

そして、南を見すえるのです。

これは中華王朝の伝統。

「天子は南面す」

と言います。

奈良の平城京も京都の平安京もそういう造りになっております。

<故宮博物院>

天壇

そして、2つ目の永楽帝が建てた歴史代表建造物が天壇です。

紫禁城から南に2kmちょっとの距離にあります。

これもやはり首都の南に造られるのが中華王朝の伝統です。

天壇とは皇帝が天帝をまつる場所です。

1年に1回冬至の日に皇帝は天子(天帝の子)として天帝に1年の出来事を報告しておりました。

冬至というのは古来より世界の数多くで神聖視されている日のひとつです。

あのクリスマスも冬至の日に由来していると言われます。

北半球ではその日を境に日が長くなる一方ですから。

木造瑠璃瓦るりがわら屋根の円い三層構造の祈年殿が見た目に印象的です。

今は天壇公園として入場可能となっております。

<天壇公園>

 

きょうのまとめ

永楽帝による北京への首都移転により、北への対応は強まりました。

が、手薄となった南では倭寇わこう(13~16世紀中国南部沿岸地域をおそった海賊。)が活発となり、明にとって深刻なマイナス要因となり続けます。

① 永楽帝は敵地南京を避けるなどの理由から首都を北京に移転した

② 永楽帝は北京に紫禁城を築いた

③ 永楽帝は北京に天壇を築いた

明、清、中華人民共和国。

永楽帝後も北京は中国史の様々な最前線と身近にあり続けてきた首都です。

 
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