平安期に活躍した一条朝の四納言。
その一人で、興味深い逸話を多く残す藤原公任とは、どんな人物だったかご存知ですか?
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藤原公任はどんな人?
- 出身地:京(現在の京都市)
- 生年月日:966年
- 死亡年月日:1041年1月1日(享年76歳)
- 祖父と父を関白に持ち将来を嘱望されながらも、政治的権力の中心にはなれなかったが諸芸に優れ、『和漢朗詠集』『拾遺抄』の選者でもある
藤原公任年表
西暦(年齢)
966年(1歳)藤原頼忠の嫡男として誕生
980年(15歳)清涼殿にて円融天皇の元で元服。正五位下に叙せられ、侍従に任ぜられる。
982年(17歳)従四位上に叙任。姉の遵子が円融天皇の皇后となる
986年(21歳)父・頼忠が関白を辞任し、藤原兼家が摂政となる。円融上皇の大堰川遊覧で三船に合わせ乗る栄誉を得る
987年(22歳)従三位に昇進した藤原道長に位階を追い越される
992年(27歳)参議として公卿に列する
993年(28歳)一条天皇の大原野神社行幸への不参事件を起こす。のち参内を停止させられる
996年(31歳)私撰和歌集『拾遺抄』を撰する
999年(34歳)14年ぶりに昇叙されて従三位となる
1001年(36歳)中納言に任ぜられ、正三位に叙せられる
1004年(39歳)藤原斉信に位階を越えられたのを不満として出仕を止め、中納言左衞門督の辞表を提出
1005年(40歳)従二位に叙せられ参内を再開
1009年(44歳)権大納言に昇進
1024年(59歳)権大納言を辞任
1025年(60歳)解脱寺にて出家
1041年(76歳)死没
藤原公任の生涯
平安貴族の中でも特に恵まれた家に生まれた藤原公任の生涯は、同い年の藤原道長の活躍により華やかな少年時代から少しずつ微妙な雲行きとなっていきました。
公任の華麗なる誕生
藤原公任は、藤原氏の主流・小野宮流の嫡男として誕生。
祖父・藤原実頼、父・頼忠が共に関白・太政大臣、母・妻共にそれぞれ醍醐天皇と村上天皇の孫であるという華麗な一族の出身です。
15歳の時にはまるで皇族のように清涼殿の円融天皇の元で元服。
異例の正五位下に叙せられた貴公子は将来を嘱望されていました。
姉である遵子は円融天皇の皇后となり、円融天皇、花山天皇の在位中は、公任のめざましい昇進ぶりが続きました。
父親の頼忠や姉の遵子が勅撰歌人(天皇の勅命による歌集に歌が掲載された名誉ある歌人)にという恵まれた環境の中で公任の歌人としての才能は大きく開花。
和歌・管弦・漢詩・書・弓などどれも一流にこなせる多才な人となりました。
権力の潮流から外れていく公任
986年に一条天皇が即位すると、公任の父・頼忠は関白を辞任し、天皇の外祖父・藤原兼家が摂政となりました。
権力の中心は公任の一族の小野宮流から兼家の九条流へ移動。
翌年公任は、彼と同い年の兼家の息子・藤原道長に位階を抜かれます。
989年朝廷の要職である蔵人頭に任ぜられた公任ですが、その先の昇進は停滞。
ようやく参議となり念願の公卿の一員となりましたが、同時に近衛中将の役目を外されます。
公任は朝廷に対して不満をぶつけるように、993年の一条天皇の大原野神社行幸の参加ボイコット事件を起こしています。
995年の赤斑瘡(はしか)の大流行、関白・藤原道隆の死、996年の長徳の変で藤原伊周が失脚すると、藤原道長が政権をものにしました。
かつてのライバル道長とは大きく地位に差がついてしまった公任は、
・源俊賢
・藤原行成
らと共に公卿・四納言の1人として一条朝を支えていきます。
昇進の限界と出家、そして死
同じ四納言でも藤原道長の娘・彰子に仕えた藤原斉信や源俊賢と違い、先帝の后であった自分の姉・藤原遵子に仕える公任は、昇進には不利なポジションにありました。
1004年に従二位に叙せられ、1009年にようやく権大納言となっています。
しかし、1023年と翌年に次女と長女を続けて亡くした公任は気力を失い、出仕を停止した後に権大納言を辞任して出家してしまいました。
四納言の源俊賢、藤原行成、そして同い年の藤原道長が亡くなり、1035年に藤原斉信にも先立たれた公任。
最後の四納言となった彼は、1041年に亡くなりました。
公任の性格がわかるエピソード
自信家で感情豊かな藤原公任の性格は記録の中でも鮮明です。
「目立ちたい、必要とされたい!」公任
まずは今昔物語のエピソードから。
一条天皇の女御として初めて参内する藤原道長の娘・彰子のために、和歌を屏風に書いて贈られることになりました。
選ばれた歌人の中でも特に公任は大御所歌人として道長に期待されています。
しかし約束の時間より遅れて登場した公任は、「いい歌が作れない」と和歌を発表するのを渋るのです。
困った道長に
「他の者の和歌ならともかく、貴殿(公任)の歌がなくては意味が無い」
とまで言わせた公任は「仕方なく」という体裁で、実にもったいぶって歌を披露。
「むらさきの くもとぞみゆる ふぢの花 いかなるやどの しるしなるらむ」
(紫の雲のように見えるほど美しい藤の花は、この家のどんな吉兆となるのだろうか。*藤の花は藤原氏を意味します。)
道長一家を持ち上げるその歌は、非常に良い出来映えだったのです。
その場にいた人々は素晴らしいと褒め称え、公任も「安心しました」と言ったそうです。
最高権力者に乞われて渋々作った歌は、絶賛される素晴らしさ・・・。
歌に絶大なる自信を持つ公任ならではのアピール感満載の逸話です。
ボイコットをする問題児・公任
公任は、高い身分の出身の自分が認められないことがあると苛立ちを隠すことはできませんでした。
同僚が参議として公卿に任ぜられる中、参議に欠員が出ても公任は任官しません。
992年にようやく参議となりますが、同時に花形職の近衛中将を辞めさせられ、朝廷に不満が溜まった彼は、翌年、藤原氏の公卿ほぼ全員が参加した一条天皇の大原野神社への行幸参加をボイコット。
この事件によりしばらく出仕差し止めとなりました。
親しい友人の斉信に越されたことを口惜しく思う公任は、すぐに出仕をストップ。
辞表を道長に提出したのです。
7ヶ月後に位階が上がるまで出仕しなかった公任でした。
紫式部と公任の仲
1008年、藤原道長の邸宅の土御門殿で、一条天皇と中宮・彰子の皇子である敦成親王(のちの後一条天皇)の誕生祝いが行われた時のこと。
宴で多くの参加者が酔い乱れる中、酔っ払った公任が紫式部に声をかけます。
「あなかしこ、このわたりにわかむらさきやさぶらふ」
(すみません。このあたりに若紫の姫君はいらっしゃいますか)
わかむらさき(若紫)とは、紫式部の書いた『源氏物語』のヒロイン・紫の上、光源氏の理想の女性です。
宮中で話題になっている『源氏物語』にひっかけた公任の冗談だったのです。
それに対して紫式部は、
「光源氏に似ていそうな人さえ見えないというのに、あの紫の上がここにいるわけないでしょ」
と相手にしなかったのだそう。(『紫式部日記』より)
実は、公任の言葉「わかむらさき」は「我が紫」の意味で、公任と紫式部は恋仲だった説もあります。
恋人だからこそ彼女が身分の高い公任に対してつれない態度を取ることができたというわけです。
お坊ちゃまのワガママ公任が紫式部にあしらわれるなんて、どうも憎めないお公家様ですね。
公任の詩歌集
ワガママ&自信家の藤原公任ではありますが、彼の文化面での実力は確かに相当なものでした。
・勅撰歌人として『拾遺和歌集』に15首、それ以降の勅撰和歌集に88首の和歌が入首
・摂関政治期の儀式・年中行事の詳細資料として貴重な有職故実書『北山抄』を著す
・和歌創作の指針を示した『新撰髄脳』、『和歌九品(わかくほん)』を著す
・朗詠に適する優れた漢詩・和歌を集めた『和漢朗詠集』、その他『拾遺抄』『金玉和歌集』を作る
公任の功績は後世の文化に多大な影響をもたらしています。
きょうのまとめ
今回は、藤原公任の生涯や彼の性格についてご紹介しました。
藤原公任とは、
① 高貴な家に生まれた自信家だが、望むほどの出世と活躍ができない悔しさを隠さなかった貴公子
② 藤原氏の小野宮家から九条家へ権力が移る無情を生涯かけて実感した公卿
③ 多才な中でも特に和歌に優れ、多くの歌や撰集を残した歌人・歌学者
でした。
お高くすましたイメージのある平安貴族たちの中で、自分の血筋に人一倍高い誇りを持ち、立身出世を望んだために超一流の歌人でありながら風流人にもなりきれなかった公任。
とても人間的な人物だとは思いませんか?
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