宇多天皇泣かせの藤原基経が起こした阿衡事件とは?

 

太政大臣だじょうだいじん・摂政の藤原良房ふじわらのよしふさが亡くなると、彼の跡を継いだのは

藤原基経ふじわらのもとつねでした。

基経は良房の甥でしたが、跡継ぎの男子がなかった良房の養子となっていたのです。

良房は天皇家の外戚として権力を握り、強引に他氏を排斥して藤原氏の勢力を確立しました。

彼が見込んだ後継者・基経も養父に負けないほど強気な人物。

今回ご紹介するのは、その中でも彼が起こした特筆すべき政治的抗争阿衡あこう事件」です。

 

阿衡事件とは

藤原基経

藤原基経
菊池容斎『前賢故実』より
出典:Wikipedia

事件が起きたのは、藤原基経が清和天皇、陽成天皇、光孝天皇に仕えたあとに、光孝天皇の第7皇子が宇多うだ天皇として即位して間もないころ。

宇多天皇は、一度臣籍降下しんせきこうかして源定省みなもとのさだみと名乗っていたのを、基経によって天皇に引き上げられた人物です。

事件は、基経自身が見込んだ天皇を大いに困らせるものでした。

阿衡事件の経緯

基経のおかげで即位できた宇多天皇は、これまでの天皇のやり方に倣って、藤原基経に政治全般を任せるつもりでした。

887年、左大弁で学者の橘広相たちばなのひろみ

「万機はすべて太政大臣に関白し、しかるのにち奏下すべし」

の詔を起草させます。

それは「全てのことは太政大臣に関白してもらってから布告する」という意味。

「関白」という成人後の天皇を補佐する役職名はこの時初めて日本の歴史に登場しました。

基経は慣例に従い、儀礼的に一度それを断ります。

そこで、宇多天皇は橘広相に

「宜しく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」

という詔を再度出させたのでした。

「阿衡」というのは、中国の摂政・関白を意味する別称でした。

ところが、文章博士もんじょうはかせ藤原佐世ふじわらのすけよが、「阿衡は位が高いが、職務はない」と基経に告げます。

そこで、橘氏という名家の活躍をもともと歓迎していなかった基経は、橘広相によって出された「阿衡」という言葉に文句をつけました。

「阿衡という実体のないただの名誉職に就けるほど私を軽んじているわけか!」

怒った基経は、それ以降彼の仕事をボイコットしてしまいました。

長期化する基経の職場放棄

藤原基経が半年も職場放棄するため、政務は滞り朝廷の機能は麻痺。

困惑した宇多天皇は誤解と解こうとして基経をなだめるのですが、基経は納得しません。

言いがかりを付けられた橘広相は、学者たちまで揃えて「阿衡」とは何をするべき役職なのかを調査させ、誤解を解こうと必死になります。

しかし、周囲の人々は実力者・藤原基経の怒りを怖れて彼の意見しか聞きません。

宇多天皇は橘広相に罪がないことを知っているだけに、基経への対処に苦慮します。

どうしても基経が折れないため、最終的に橘広相を罷免し、天皇として自分の誤りを認める詔を発布せざるを得ませんでした。

菅原道真による助け船と基経の業務開始

それでもまだ怒っていた基経は、さらに橘広相の流罪を主張。

そこで官人であり学者の菅原道真すがわらのみちざね書簡を送って基経を諫め、橘広相に対する世間からの非難の目を和らげてやりました。

ようやく基経は政務を執り始め、888年には基経の娘・温子が宇多天皇の女御に上がりました。

これは宇多天皇と基経との関係修復の目的があったとされています。

 

阿衡事件が示す意味 基経の真の狙いとは?

さて、この阿衡事件は単に気分屋の藤原基経が単にワガママを言った事件ではありません。

基経にはこの事件を大きく派手にすることで狙っていた効果があったのです。

藤原氏の権力が天皇に勝ることを世に知らしめた

もともと宇多天皇は藤原基経に見出され彼のおかげで天皇になれました。

その天皇が

「基経に自分の過ちを詫びた」ことは、基経の力の強大さの証明になりました。

つまり、天皇は藤原氏の操り人形にすぎないというアピールです。

基経による「関白就任」の大宣言となった

この事件のおかげで

「藤原基経が関白に就任した」

ということを天皇を含む全ての人に大々的に認めさせ、政治の実権が基経にあることをアピールすることができました。

藤原氏による他氏排斥運動の一環だった

実は、橘広相は宇多天皇の即位前から娘・義子よしこを天皇に嫁がせ、将来天皇を継ぐ可能性のある皇子を孫に持っていました。

つまり、橘広相と天皇家との外戚関係が結ばれつつあったのです。

自分の孫を天皇にして権力を手中にするという外戚政策は、藤原氏だけの専売特許ではありません。

藤原氏の権力を盤石にするには、橘氏を台頭させてはいけなかったのです。

だからこそ、基経は執拗に橘広相を攻撃したのでした。

無実の橘広相は処罰され、大ダメージを受けた橘氏。

事件以降には彼らの氏族としての力が弱まり、橘広相は約1年後に死没してしまいました。

結局橘氏による外戚政策は立ち消えとなり、基経の狙い通りとなったのでした。

 

藤原氏と宇多天皇の間に残ったしこり

阿衡事件は宇多天皇にとって屈辱的な出来事でした。

表面上こそ基経との関係を修復したかのように見えた宇多天皇。

しかし891年の基経の死後は、唯一阿衡事件を軟着陸させることに協力した菅原道真を重用し、藤原氏を避けるようになっています。

 

きょうのまとめ

今回は、藤原基経と宇多天皇との間で起きた政治的事件「阿衡事件」について説明しました。

簡単なまとめ

① 阿衡事件とは、887年に藤原基経が宇多天皇の詔にあった言葉「阿衡」を言いがかりに職場放棄をした政治事件

② 基経は、阿衡事件を利用して藤原氏の力の誇示・大々的な関白就任宣言・橘氏排斥を行った

③ 阿衡事件をきっかけに宇多天皇の信頼は藤原氏から菅原道真へと移行していった

 
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku