ワナに堕ちた天才・江藤新平。頑固な性格が佐賀の役に走らせた!

 

肥前藩出身の江藤新平は、近代国家としての日本の骨組みを作るため、次々と革新的な制度を整えていきました。

天才と言われた彼の頭脳なしにはそれらは成功しなかったと言われています。

しかし彼の死の原因の一つは、その性格にあったのです。

無残に処刑された江藤に一体何が起きたのでしょうか。

 

天才・江藤新平の性格が表われた国家作り

江藤新平

江藤新平
出典:Wikiepdia

明治維新に貢献した「薩長土肥」のいわゆる4藩のうち、肥前(佐賀)出身だった江藤新平の明治政府での功績を見てみましょう。

江藤新平による日本近代化政策

新政府ですぐに民政、財政、都市問題を担当していた江藤新平ですが、1872年には初代司法卿に就任し、参議などを歴任して

・四民平等

・学生制度の基礎固め

・警察制度整備

・司法制度整備

・娼妓解放令

などの近代化政策を進めました。

彼は、イギリスやフランスの三権分立(立法・司法・行政の独立)を見習いました。

「民権」という概念がなかった当時の日本で、民の権利を守り、だれもが公平・公正な裁判をすることができる世の中に作りかえようとしたのが江藤新平でした。

江藤のやり方を好まぬ反対勢力

ところが、政府内の保守派は江藤の考えを非難しました。

大久保利通たちは、プロイセン王国(のちのドイツ帝国)を見本として、行政権=司法権を主張したので、江藤の三権分立とは相容れることができなかったのです。

江藤による制度改革は、かなりのスピード感を持って進められた政策でした。

性急な改革が周囲の理解を得にくかったことも一因でしょう。

さらに、江藤は政府内部の不正

山縣有朋やまがたありともが公金を貸し付けて見返りを享受した山城屋事件

井上馨いのうえかおるが南部藩所有の鉱山を私物化した尾去沢銅山おさりざわどうざん事件

などを厳しく追及。

それにより山縣と井上が辞職に追い込まれたことは、「明治政府をおとしめた」と逆恨みされるようなところもあったのです。

江藤新平の性格と仕事のやり方

相手が同じ政治家でも、追求の手を緩めない江藤新平のやり方は、彼の性格そのものでした。

彼は大変生真面目高潔だったと言われます。

その上頭脳明晰だった江藤には、悪や矛盾が見えてしまうのです。

彼のカミソリのように鋭く、整然とした理論は、討論の相手を屈服させるだけの力がありました。

ただ、それは彼の長所であると同時に短所でもあったのです。

 

佐賀の乱。それはワナだ!

そんな正義感のある優秀な官僚の江藤新平がなぜ、故郷佐賀の不平士族たちの「佐賀の乱」のリーダーとなったのか、それには理由がありました。

ワナにはまった江藤新平

保守派の大久保利通は、江藤新平のまっすぐな正義感を危険だと感じていました。

危険分子は排除しなくてはなりません。

当時、朝鮮の国交を武力によって開かせようとする征韓論争が政府内に勃発。

反対派・大久保利通、木戸孝允に対し、賛成派だった西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らは敗北し、1873年に官職を辞して下野しました。

その時、江藤は佐賀に帰郷

待遇に不満を持ち、不穏な動きを見せる佐賀の士族たちの問題を、話し合いで解決しようとしたのです。

板垣退助・大隈重信などは、佐賀に戻れば江藤を潰そうとする大久保の思うツボになるからやめろと彼を説得。

しかし、頑固でまっすぐな性格の江藤はそれに耳を貸さなかったのです。

江藤が帰郷するタイミングを大久保は逃しませんでした。

佐賀士族たちがまだ何もしていない段階で追討令を発令したのです。

これに怒りを爆発させた佐賀士族たち。

義憤に駆られた江藤は、佐賀士族のリーダーとして決起し、佐賀の役が始まりました。

大久保に売られた喧嘩を買った江藤は、気づいていたのでしょうか。

それこそが政府保守派が待っていたことであり、全ては革新派・江藤新平へのワナだったことを。

江藤の皮肉で残酷な運命

江藤は地元の憂国党と手を組み、佐賀征韓党首領として決起しましたが、政府軍佐賀士族では軍の力の差は歴然でした。

江藤は、勝ち目がないことを悟った段階で、征韓論で彼同様に政府を去った鹿児島の西郷隆盛に加勢を依頼しています。

しかし、西郷はそれを拒否。

その後、江藤は逃亡中に高知で拿捕だほされました。

江藤が捕まったのは、彼の指名手配写真が出回っていた成果です。

これは、江藤にとって皮肉な出来事でした。

かつて政府の司法卿だった江藤は、日本の裁判制度や警察機構を整備するときに、指名手配写真制度の導入を図っていました。

そして、その制度で最初に捕まった人物こそ、江藤新平その人だったのです。

また、捕縛後の裁判で彼を裁いたのは、江藤の司法省時代の元部下・河野敏鎌こうのとがまでした。

しかし裁判は、江藤が整備した公正なものとは正反対でした。

大久保利通の言いなりになった河野にまず士族の身分を剥奪された江藤は、釈明の機会も十分に与えられないまま一方的に死刑宣告されたのです。

しかも、公開処刑の斬首です。

あらかじめ河野が士族の地位を取り上げたのは、斬首後の首を3日間梟首きょうしゅ(さらし首)するのが目的だったからでした。

逆賊扱いされていた江藤ですが、のちに大日本帝国憲法発布に伴う大赦によってその賊名が返上されたのがせめてもの慰めでしょうか。

 

きょうのまとめ

その明晰な頭脳をもって明治政府で鮮やかな活躍をした江藤新平。

その彼へ下した佐賀の乱後の処刑は、天才肌の元政府首脳に対してはあまりに非礼でむごいしうちでした。

簡単なまとめ

① 江藤新平は、天才的な頭脳を持つ高潔で頑固・生真面目な明治政府官僚だった

② 彼の性格のままに、日本の近代国家として「民権」を中心にした制度改革実施に邁進した

③ 彼が決起した佐賀の乱は、明治政府保守派・大久保利通に誘導されたワナであった

④ 佐賀の乱敗戦後、江藤は逆賊として不公平な裁判の下、刑死を遂げた

民主国家である現代日本なら、彼のあのときの貢献を理解できるでしょう。

 
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku