榎本武揚や土方歳三が戦い、
戊辰戦争を終わらせた五稜郭の戦いは箱館戦争とも呼ばれます。
北海道新幹線が開通して函館へのアクセスもぐっと良くなったので、
観光に行く方も多いかもしれません。
そこで今回は箱館戦争の流れについて、簡単にご紹介していきます。
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箱館戦争の概要
五稜郭の戦い(箱館戦争(現在は「函」館と書きますが、当時は「箱」の字が使われていました。)は1868年、
旧幕府軍が明治新政府に抵抗した戦いのことです。
旧幕府軍を率いていたのは榎本武揚、幕府では海軍奉行を務めていた人物です。
箱館戦争では新政府軍と戦った榎本武揚ですが、その後は明治政府の要職に就いています。
また、この戦いに参加したもう一人の有名人といえば、土方歳三です。
新撰組の副長として、幕末を語るには欠かせない存在となっていますよね。
生き残って明治政府に入った榎本とは違い、土方はこの戦いで命を落としました。
箱館戦争の流れ
そもそも五稜郭とは
戦いの舞台となったのは五稜郭です。
五稜郭は幕末、武田斐三郎という蘭学者によって設計された幕府側の平城のことです。
オランダの築城書を参考にしているので、洋風になってます。
特徴は周りを取り囲む土塁が、星の形をしているところです。
星形というとかわいらしい感じがしますが、死角をできるだけ少なくするためという実用的な造りとなっているのです。
同じ造りをしているのは、国内だと他に長野県佐久にある龍岡城のみということです。
榎本武揚 軍艦で蝦夷地へ
1868年4月、幕府は戦うことなく、新政府側に江戸城を明け渡しました。
いわゆる江戸城無血開城ですね。
しかしこの決定に不満を持った榎本武揚は、軍艦などを率いて品川沖から北へと脱出しました。
榎本たちは途中、仙台に寄港します。
そこで土方歳三らの味方が加わり、約3千という軍勢で蝦夷地へと向かうことになりました。
そして蝦夷地へ着くと五稜郭を占領、さらに新政府側についていた松前藩を攻めて松前と江差も占領します。
12月15日には、榎本武揚を総裁とする仮政権が樹立しました。
圧倒的な戦力差
開陽丸とは旧幕府側の軍艦のことです。
江差の砲台を攻撃するために派遣されましたが、暴風雪のために座礁、沈没してしまいました。
この結果、旧幕府側の戦力は著しく低下することになります。
その一方で、新政府側はアメリカから甲鉄という装甲艦を手に入れます。
さらに最新鋭の軍備だけでなく、新政府軍は約8千もの部隊を青森に集めます。
このように最大の戦力を失った旧幕府軍に対して、新政府側は圧倒的な戦力を保持していたといえます。
旧幕府軍 降伏へ
新政府軍は乙部(箱館の北西・現在の乙部町)に上陸し、次第に旧幕府軍は追い詰められていきます。
そして榎本たち旧幕府軍は、五稜郭にこもることを余儀なくされました。
一方、土方歳三は苦戦を強いられていた弁天砲台に援軍として向かう途中、敵の砲弾を受けて亡くなります。
榎本武揚のもとには、新政府軍の参謀であった黒田清隆から降伏勧告書が届きます。
榎本はこれを拒否、自決をしようとしますが仲間から止められます。
結局、旧幕府軍幹部が黒田清隆と会談し、降伏という道を選びます。
これをもって戊辰戦争は終わり、日本は新しい時代へと突入していくのでした。
きょうのまとめ
今回は五稜郭の戦い(箱館戦争)についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。
箱館戦争とは、
② 旧幕府軍に比べ、新政府側の戦力は圧倒的だった
③ 戊辰戦争最後の戦いとなった
といえます。
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