ヨーロッパで大航海時代が始まるより半世紀も前の話です。
東アジアに空前絶後の大航海遠征プロジェクトが行われておりました。
●一回につきの参加人数2万7千人前後
●たどりついた一番遠くは東アフリカ
●全7回
命じたのは明の永楽帝(最後の1回は宣徳帝)。
部隊を指揮するのは鄭和。
いやいや、空前絶後な話はまだまだこれから目白押しです。
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鄭和
鄭和の生い立ち
そもそも、鄭和の人となりについてまず説明しておかなければなりません。
鄭和は中央アジア出身イスラム教徒の家系です。
生まれたのは中国内陸南部にある雲南省。
自然が豊かでいろんな少数民族がいる地域です。
しかし、雲南は明によって征服され、鄭和は捕まり、男の大事な部分を切り取られてしまいました。
こうして、当時まだ燕王だった朱棣に差し出されます。
鄭和の特殊スキル
その後、鄭和は靖難の変(※)で活躍します。
(※)1399~1402年。朱棣が甥建文帝に対して起こしたクーデター。朱棣が勝ち、永楽帝として即位。
また、鄭和はその生い立ちから
●父・祖父がイスラムの聖地メッカ(※)に巡礼したことがある
(※)今はサウジアラビアにあります
といった経験を買われてでしょう。
とんでもない空前絶後のビッグ・プロジェクトの総司令官に任命してもらいます。
それが……。
永楽帝が南海大遠征をおこなった理由
南海大遠征です。
大船団を組んで世界中いろんなところを旅してまわります。
ではそもそも、なぜ永楽帝はこんな大掛かりなプロジェクトを組んだのでしょう。
その有力な理由として以下のことが挙げられております
① 永楽帝は建文帝から皇帝の位をむりやり奪い取った負い目から、とんでもないビッグプロジェクトを立ち上げてみんなの目を外に向けようとした
② 度重なる対外遠征など、永楽帝がおこなった積極路線の一環
超巨船?宝船
鄭和の大遠征における伝説的語り草です。
その船の大きさ、とんでもないです。
全長150m。
人呼んで宝船。
ちなみに
●ペリー黒船艦隊最大のサスケハナ号が78.3m
正直、
「こんな大きいの、当時の造船技術では無理だろ」
という説が根強くあります。
ただ、一方で1957年には南京郊外の宝船造船所跡から巨大な舵が発見され、
「その証拠なんじゃないの?」
という声もあります。
またちなみに、船は三層構造。
一番上層には土を敷き、野菜を作りました。
長い航海をしているとどうしてもビタミンCが欠乏します。
すると、壊血病というとても恐ろしい病気にかかりやすくなります。
これはその予防策です。
鄭和の遠征部隊は何をやっていたの?
こんな大船団がいきなりやってきたらビビります。
ということで、鄭和は行く先々の国々に
「明に朝貢しなさい」
と勧めます。
朝貢とは漢字で「朝廷に貢ぎ物をすること」ですが、一種の取引です。
明からも「お礼の品」をちゃんと差し出します。
こうしてたくさんの国々が明と「朝貢関係」を結びました。
また、鄭和の大船団にはたくさんの兵隊もふくまれており、現地に軍事介入することもたまにありました。
まるで動物園?
朝貢物の中にはめずらしい動物がたくさんふくまれております。
キリン、ライオン、ヒョウ、シマウマ、ダチョウ、……。
とてもにぎやかそうです。
鄭和の悲願
鄭和は先にも示した通りイスラム教徒です。
そして、イスラム教徒の大きな願いのひとつが
「聖地メッカを訪れること」
です。
鄭和が第7回航海に旅立ったのがちょうど60才ごろ。
ついにこの時、鄭和は部下たちに
「自分に代わってメッカ巡礼すること」
を命じます。
彼らは無事それをなしとげ、鄭和は長い冒険から帰りつくとまもなく、その生涯を終えました。
きょうのまとめ
今見つかっているもっとも古い羅針盤(方位磁石)の使用は中国です。
そのため、航海術はヨーロッパにも先んじておりました。
ただ鄭和の死後、明は日本の江戸時代のように内向き志向へと転換します。
一方のヨーロッパは大航海時代をむかえ、七つの海を制覇してゆきます。
② 鄭和の大船団は行く先々で「明への朝貢」を求めた
③ 鄭和は最後の遠征で部下らにメッカ巡礼をさせた
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