後期ロマン派の作曲家、ドヴォルザーク。
『新世界より』、『モラヴィア二重唱曲集』等の代表曲で知られる彼は、チェコ国民楽派を代表する一人でもあります。
ドヴォルザークとは一体、どの様な人物だったのでしょうか。
今回は、主な功績やエピソードと共にその生涯について見ていきましょう。
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ドヴォルザークはどんな人?
- 出身地:チェコ ネラホゼヴェス
- 生年月日:1841年9月8日
- 死亡年月日:1904年5月1日(享年62歳)
- チェコ後期ロマン派の作曲家。
ドヴォルザーク 年表
西暦(年齢)
1841年(0歳)チェコのプラハ郊外ネラホゼヴェス村で誕生。
1847年(6歳)通い始めた小学校の校長からヴァイオリンを教わり、才能を覗かせる。
1849年(8歳)村の教会で聖歌隊員になる。
1850年(9歳)アマチュア楽団のヴァイオリン奏者になる。父親により、実家の肉屋を継ぐために小学校を退学させられ、修業に行かされる。
1856年(15歳)チェスカー・カメニツェでドイツ語と音楽を学ぶ。
1857年(16歳)伯父からの金銭的援助を得て、プラハのオルガン学校に入学。
1859年(18歳)優秀な成績で卒業後、ヴァイオリン奏者として楽団に入団。
1862年(21歳)国民劇場の建設に伴い、仮劇場のオーケストラでヴァイオリン奏者になる。
1870年(29歳)初のオペラ作品『アルフレート』を作曲。
1871年(30歳)創作に時間を当てるためオーケストラを退団。個人の音楽教師として生計を立てる。
1873年(32歳)賛歌『白山の後継者たち』の初演が成功を収める。
1874年(33歳)プラハの聖ヴォイチェフ教会のオルガニストに就任。オペラ『王様と炭焼き』が大成功を収める。オーストリア政府の国家奨学金の審査に通り、以降5年間多額の奨学金を得る。
1876年(35歳)弦楽五重奏曲ト長調が芸術家協会芸術家賞を獲得。
1878年(37歳)全22曲からなる『モラヴィア二重唱曲集』によりブラームスから才能を見出される。宗教曲『スターバト・マーテル』や『スラブ舞曲集』を作曲。
1880年(39歳)歌曲集『ジプシーの歌』、交響曲第6番ニ長調を作曲。
1884年(43歳)演奏会のためにロンドンを初訪問。ロンドン・フィルハーモニック協会の名誉会員に推挙される。交響曲第7番を作曲。
1889年(48歳)オーストリア三等鉄王冠賞を受賞。
1890年(49歳)交響曲第8番を作曲。チェコ科学芸術アカデミーの会員に推挙される。プラハ音楽院教授に就任。
1891年(50歳)プラハ大学名誉博士号、ケンブリッジ大学名誉音楽博士号を授与される。
1892年(51歳)アメリカのニューヨーク・ナショナル音楽院で講義を開始。
1893年(52歳)交響曲第9番『新世界より』を作曲。
1894年(53歳)ニューヨーク・フィルハーモニーの名誉会員に推挙される。『聖書の歌』を作曲。
1895年(54歳)チェコに帰国後、プラハ音楽院で再び教鞭を執る。
1897年(56歳)オーストリア国家委員会の委員になる。
1898年(57歳)芸術科学名誉勲章を受賞。
1904年(62歳)持病の悪化と脳出血により死去。
ドヴォルザークの生涯
ここからは早速、ドヴォルザークの主な功績についてご紹介していきます。
後期ロマン派
ドヴォルザークの功績について知るうえで、まずは彼の作曲家としての立場を把握しておきましょう。
ドヴォルザークが活躍したのは19世紀の後半で、主な拠点は出身地のチェコでした。
当時のヨーロッパに流れる音楽的潮流としては、ロマン派が中心を占めていた時期です。
あらゆる芸術文化に影響を与えたロマン主義の特徴をまとめると、
・空想、幻想、牧歌的世界への憧れ
・人間性を尊重した表現
といったものが挙げられます。
これは、18世紀の潮流だった啓蒙主義の、理性重視に対する反動として現れた潮流なのです。
その後期に生まれ育ったドヴォルザークが幼い頃から触れた音楽はやはりロマン派の影響が強く、音楽家となってからも若い頃は特に、ロマン派を代表するワーグナーなどへの傾倒が見られます。
楽団でのヴァイオリン奏者や、音楽の個人教師として生計を立てる傍ら、
・賛歌『白山の後継者たち』
・オペラ『王様と炭焼き』
などといった作品を創作しています。
国民楽派
徐々に作曲家として一目置かれるようになっていったドヴォルザーク。
彼は30歳になると、創作に専念するために楽団を退団します。
そして交響曲第3番、第4番といった作品によって、オーストリア政府から多額の奨学金を受けるまでになりました。
ドヴォルザークは生涯に渡り様々な賞を受賞していきますが、そんな地道な成功が彼を一流の作曲家へと押し上げたのです。
なかでも、全22曲からなる『モラヴィア二重唱曲集』がブラームスの目に留まったことで、ドヴォルザークの知名度は一気に上がることになりました。
・『弦楽四重奏曲第10番』
・『チェコ組曲』
など。
この頃から発表する作品は、20代までのワーグナーに影響を受けたドイツ的な作風から離れ、ドヴォルザークの故郷の特色を反映したものになっていきます。
このことから彼は、国民楽派の作曲家としても位置付けられているのです。
<モラヴィア二重唱曲集>
グローバルな活動を経て
作品の数々の成功と共に、その知名度は国外にも広がっていったドヴォルザーク。
彼は依頼を受け、
・ベルリンで指揮者デビュー
・ニューヨークで音楽教育
といった国際的な活動もしています。
さらに、故郷のチェコではプラハ音楽院で教授にまでなっています。
この様に多忙な日々を送る中でも、ドヴォルザークの創作の意欲が衰えることはありませんでした。
なかでも交響曲第9番『新世界より』は、彼がアメリカで教鞭を執っていた時代に、この土地に影響を受け制作された作品です。
しかし54歳の時にチェコに帰国すると、ドヴォルザークは故郷を自身の本拠地に定め、以降プラハの穏やかな環境の中で創作生活を送りました。
後期の主な作品には、
・オペラ『悪魔とカーチャ』
・オペラ『ルサルカ』
などがあります。
また晩年の彼は、様々な名誉ある団体の会員任命や勲章の受賞も受け、62歳の時にその華やかな生涯を閉じました。
運命を分けた少年時代
ここではドヴォルザークの人物象を探るために、彼にまつわるエピソードをひとつご紹介します。
チェコのプラハ郊外、田舎町で誕生したドヴォルザーク。
彼の実家は肉屋と宿屋を営む、決して裕福とは言えない家庭でした。
一方、父と伯父がアマチュアの音楽家として演奏していたこともあり、ドヴォルザークも幼い頃からその才能を見せ始めます。
小学生で教会での聖歌隊、楽団のヴァイオリン奏者も務めました。
しかし肉屋を継がせるつもりでいた父親により、小学校を退学させられ、修業に出されたのです。
音楽の道を諦めるしかないように思われた彼でしたが、伯父の住むそのズロニツェという町で出会った人物が、なんと職業専門学校の校長かつ指揮者兼作曲家でした。
彼に才能を見出されたドヴォルザークは、そこで作曲や演奏の基礎を叩き込まれます。
そしてその後、彼と伯父に父親を説得してもらい、伯父には金銭的負担を丸ごと引き受けてもらえたことで、ドヴォルザークは音楽家となるべく一歩を踏み出せたのでした。
きょうのまとめ
今回は19世紀末にチェコで活躍した作曲家、ドヴォルザークについてご紹介していきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、ドヴォルザークとはどの様な人物だったのかを簡単にまとめると
① 19世紀後半に活躍したチェコの作曲家。
② 後期ロマン派であり、国民楽派を代表する作曲家である。
③ イギリスやアメリカでも活躍したが、晩年はプラハで創作に専念した。
ドヴォルザークは、金銭的に貧しい環境に育ちながらも、周囲の援助と地道な努力によって大きな功績を遺したのです。
彼の作品は、今なお多くの人々に愛されています。
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