カミーユ・サン=サーンスとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

19世紀~20世紀初頭にフランスで活躍したロマン派の作曲家、

カミーユ・サン=サーンス

チェロの音色が美しい『白鳥』などの曲で知られる彼は、音楽に留まらず様々な方面で功績を遺す、博学多才な文化人でもありました。

カミーユ・サン=サーンスとは一体、どの様な人物だったのでしょうか。

今回はその生涯を辿りながら、彼の遺した功績について見ていきましょう。

 

カミーユ・サン=サーンスはどんな人?

プロフィール
カミーユ・サン=サーンス Camille Saint-Saëns

カミーユ・サン=サーンス
Camille Saint-Saëns
出典:Wikipedia

  • 出身地:フランス パリ
  • 生年月日:1835年10月9日
  • 死亡年月日:1921年12月16日(享年86歳)
  • フランスの作曲家。オルガニスト。ピアニスト。文化人。

 

カミーユ・サン=サーンス 年表

年表

西暦(年齢)

1835年(0歳)フランス人官吏の家に誕生。生後2か月で父親を亡くす。

1837年(2歳)2歳半でピアノを弾き始める。

1838年(3歳)3歳5カ月の時に初の作曲。

1840年(5歳)5歳半で初歌曲『夕べ』を作曲。

1842年(7歳)本格的に音楽の勉強を始める。ラテン語、ギリシア語にも精通。

1846年(10歳)初のピアノコンサートを行う。

1848年(13歳)パリ音楽院に入学し、作曲とオルガンを学ぶ。

1852年(17歳)セシリア協会作曲コンクールに応募した『聖セシリア讃歌』が入賞。

1853年(18歳)『交響曲第1番』を作曲。聖セシリア協会の演奏会で大成功を収める。

1855年(20歳)『交響曲第1番 変ホ長調 op.2』が初出版作品となる。

1857年(22歳)パリ8区のマドレーヌ教会でオルガニストに就任。以降20年間務める。

1861年(25歳)ニデルメイエール音楽学校のピアノ科で教授に就任。以降4年間務める。

1867年(31歳)パリ万博記念コンクールに応募したカンタータ『プロメテの結婚』が入賞。

1868年(32歳)『ピアノ協奏曲第1番』を作曲。翌年、第2番を作曲する。

1871年(35歳)フランス国民音楽協会を設立。交響詩『オンファールの糸車』を作曲。

1872年(36歳)オペラ『黄金の女王』を作曲。

1874年(38歳)交響詩『死の舞踏』を作曲。

1880年(44歳)『アルジェリア組曲』を作曲。

1881年(45歳)アカデミー会員に選出される。

1883年(47歳)オペラ『ヘンリー8世』が初演で大成功を収める。

1886年(50歳)組曲『動物の謝肉祭』を作曲。交響曲第3番『オルガン付き』を作曲。

1892年(57歳)ケンブリッジ大学から名誉博士号を贈られる。

1901年(66歳)ヴィルヘルム2世からプール・ル・メリット勲章を贈られる。

1908年(73歳)映画『ギーズ公の暗殺』のためにオリジナル曲を作曲する。

1913年(78歳)レジオン・ドヌール勲章最高位グラン・クロワを授与される。

1921年(86歳)アルジェリアを旅行中に死去。

 

カミーユ・サン=サーンスの生涯

ここからは早速、カミーユ・サン=サーンスの生涯についてご紹介していきます。

神童


1835年、フランスで官吏を務めていた父の元に誕生したカミーユ・サン=サーンス。

生後2か月で父親を亡くすと、以降は母と大叔母によって育てられます。

サン=サーンスは2歳半でピアノを弾き始めると、残っている楽譜としては、3歳5か月で初の作曲を行っています。

5歳の時には歌曲を作曲し、10歳の時にコンサートデビューを果たすなど。

その才能の早熟ぶりは天才的で、瞬く間に神童としての名が知れ渡りました。

13歳の時にはパリ音楽院に入学し、作曲とオルガンを専攻すると、以降生涯において数々の功績を遺していくこととなります。

86年の長きにわたる人生で、300曲以上の作品を遺したとされるカミーユ・サン=サーンス。

代表曲には、

・交響曲第3番『オルガン付き』

・組曲『動物の謝肉祭』

・交響詩『死の舞踏』

などがあり、主に室内楽や交響曲が現在でも有名です。

<交響曲第3番『オルガン付き』>

音楽家として

初めて触れた楽器がピアノではあったものの、即興のオルガン弾きとしても有名だったカミーユ・サン=サーンス。

彼は22歳の時に、パリにあるマドレーヌ教会のオルガニストとして就任します。

この教会でオルガニストになることは当時大変名誉なことであり、サン=サーンスの腕の確かさを証明する出来事でした。

彼はその後、20年に渡りこの職を務めます。

一方で、教師として音楽家を育てることにはあまり強い関心がなかったと思われるサン=サーンス。

彼は25歳から4年間、音楽学校でピアノ科の教授を務めたきりで、以降は教職に就くことはありませんでした。

ちなみに、その貴重な4年間の教員生活で教え子のひとりにいたのが、ガブリエル・フォーレです。

彼については当サイトでも紹介している記事があるので、ご興味のある方は合わせてご覧ください。

1871年、フランス音楽の振興を目的に国民音楽協会を設立した際には、フォーレも参加しています。

他の交友関係を見てみると、オルガンの名手フランツ・リストとの親交も深く、彼は生涯にわたるサン=サーンスのよき理解者でした。

評価は後から


神童として幼い頃から才能を発揮していたカミーユ・サン=サーンスでしたが、実はその功績が認められるようになったのは、人生も半ばを迎えた頃でした。

と言うのも彼が若い頃に取り組んでいた室内楽曲や交響曲は、19世紀初め~半ばまでのパリでは、あまり好まれるものではなかったのです。

個人としての才能は十分認められても、作品の傾向はドイツ主義的であるとして非難の対象となり、思うような評価がもらえませんでした。

サン=サーンスがフランスのロマン派音楽家として歴史に名を遺すきっかけとなったのは、オペラ『ヘンリー8世』の成功です。

それ以降は過去の作品や活動などが改めて注目され、

・ケンブリッジ大学の名誉博士号を授与される。

・ヴィルヘルム2世からプール・ル・メリット勲章を贈られる。

・レジオン・ドヌール勲章最高位のグラン・クロワを授与される。

など、その数々の功績が正式に認められるようになったのでした。

そして86歳で死去した際には、盛大な国葬が執り行われるまでになったのです。

 

文化人


ここでは、カミーユ・サン=サーンスに関する逸話から、その人物像をもう少し詳しく見ていきましょう。

冒頭でもご紹介したように、音楽以外の方面でも才能にあふれていたカミーユ・サン=サーンス。

記録によって判明しているだけでも、

・詩人 → 詩集を執筆

・戯曲作家 → 喜劇作品など

・天文学者 → フランス天文学会発足メンバー

・哲学者 → 著書『問題と神秘』など

・考古学者 → ギリシアの壺絵を長年研究

・民族学者 → 異民族、異文化の資料収集

・ジャーナリスト → 音楽界の動向についての毒舌論評で有名

などなど。実に多くの顔を持っていたのです。

また

・ギリシア語とラテン語に精通

・多数の似顔絵や漫画を描く

・趣味で世界各国を旅行する

など、あらゆることに興味を示し行動に移す、まさに「文化人」でした。

 

きょうのまとめ

今回は、フランスの音楽家カミーユ・サン=サーンスについて、その生涯や功績をご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、カミーユ・サン=サーンスとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると

① 19世紀~20世紀初頭のフランスロマン派で、神童タイプの作曲家。

② オルガニスト、ピアニスト、音楽ジャーナリストとしても活躍した。

③ 音楽以外でも様々な分野で活動し、多くの功績を遺した。

幼い頃から才能を発揮し、86歳でこの世を去ったカミーユ・サン=サーンス。

彼が亡くなったのは、旅先の中でも気に入っていたアフリカ大陸のアルジェリアで、避寒旅行中のことでした。

 
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