マリー・キュリーとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

日本では「キュリー夫人」という呼び名で知られることの多い、

マリー・キュリー。

ポーランド出身の科学者で放射性物質について研究し、

その生涯で2度のノーベル賞を受賞。パリ大学で初の女性教授となりました。

そんな華々しい業績を残した彼女でしたが、

若い頃は困窮でぎりぎりの生活のなか研究に励み、

共同研究者で最愛の伴侶だった夫を事故で亡くし、

晩年は長年の放射能被曝により様々な病気を発症しています。

マリー・キュリーとは一体どんな人物だったのでしょうか。

今回は彼女が成した業績とその生涯に迫ります。

 

マリー・キュリーはどんな人?

プロフィール
マリー・キュリー

キュリー夫人
出典:Wikipedia

  • 出身地:ポーランド ワルシャワ
  • 生年月日:1867年11月7日
  • 死亡年月日:1934年7月4日(享年66歳)
  • 放射線研究に取り組んだ物理学者・科学者。ラジウムとポロニウムの発見者。パリ大学初の女性教授。

 

マリー・キュリー 年表

年表

西暦(年齢)

1867年(0歳)帝政ロシアの支配下にあったポーランドの首都ワルシャワに、5人兄弟の末っ子として生まれる。

1873年(6歳)下級貴族出身で科学者だった父が密かに行っていた講義がロシア政府にばれ、同じく下級貴族出身で女学校の校長だった母も体調を崩し、一家は職と住居を失い一気に困窮に陥る。

1883年(16歳)ギムナジウムを優秀な成績で卒業。しかし当時の風潮で女性が大学に通うことはできず、1年田舎で休息した後に家庭教師などのアルバイト生活の傍ら、研究グループに所属し学ぶ。

1891年(24歳)資金を貯め、姉夫婦の住むパリに移住。パリ大学に入学し、物理、化学、数学を学ぶ。

1894年(27歳)アルバイトの傍ら勉学に励んでいた時期に、フランス人科学者で夫となるピエール・キュリーと出会う。

1897年(30歳)長女イレーヌを出産。翌年、ピエールとの共同研究で放射性元素、ポロニウムとラジウムを発見。

1903年(36歳)ポロニウムとラジウムの発見に関する功績が讃えられ、ピエールと共にノーベル物理学賞を受賞。翌年、次女イブを出産。

1906年(39歳)夫ピエールが荷馬車に轢かれ死去。ピエールの後任としてパリ大学の教授となる。

1911年(44歳)放射性物質に関する研究の末にノーベル化学賞を受賞。

1921年(54歳)アメリカから研究材料の提供と共にワシントンへ招待され、助手になっていた長女イレーヌと共に渡米。

1934年(66歳)長年の放射性物質の研究による被曝が原因で再生不良性貧血を発症し、フランスで死去。

 

マリー・キュリーの生涯

貪欲な学習意欲

その生涯を研究に捧げたマリー・キュリー。

ポーランド出身の彼女はギムナジウムを卒業後、

家庭教師などのアルバイトで資金を貯め、24歳のときに姉夫婦の住むパリに移住します。

そして貧しいアルバイト生活の傍らパリ大学で物理、化学、数学などを学び、

夫となるフランス人科学者のピエールと出会い共同研究を始めてからは、

放射性物質の研究を進めていきます。

そして1898年7月18日に「ポロニウム」、12月26日に「ラジウム」という、

放射性物質の元素の特定に成功します。

この発見は科学界で高く評価され、マリー・キュリーは夫ピエールと共に

1903年、ノーベル物理学賞を受賞します。

夫の死と2度目の受賞

その後、ポロニウムとラジウムの更なる研究を続けた二人でしたが、

1906年の4月19日、交通事故によりマリーはピエールを失います。

マリーは突然夫を亡くした悲しみに暮れる間もなく、

パリ大学からの要請を受け、教授だったピエールの後任を務めることになります。

その後、幼い2人の娘を抱えながら研究を続けた彼女は

1911年、化学賞の部門で2度目のノーベル賞を受賞します。

ちなみに、ノーベル賞を複数回受賞することになったのは彼女が初めてでした。

受賞後の彼女は、放射性物質を利用した医療に関する研究にも携わるようになっていきました。

1914年から勃発した第一次世界大戦時には、自身で開発した放射線技術によって、

戦争で負傷した人々の治療のために、多くのレントゲン設備を提供しています。

他国からの評価

戦後も意欲的に研究を続けた彼女は、1921年にアメリカから研究資材を提供され、

ワシントンに招待されます。

そこで、彼女の助手を務めるようになっていた長女イレーヌと共にアメリカを訪れた

マリーは、時のアメリカ大統領ハーディングと対面しています。

アメリカにはその後再度訪れ、故郷ポーランドのワルシャワに設立した

キュリー研究所に導入する機器や資材を得るための資金集めに成功します。

若い頃から自身を飾り立てることなく、そのエネルギーの全てを研究に注いできた彼女は、

どれほど知名度が上がろうともその姿勢を変えることはなく、

提供された資材や資金はあくまで研究所の所有する財産として保有していました。

晩年とその最期

晩年は、研究所に所属する多くの若き研究員たちの指導や支援を務めた

マリー・キュリー。

彼女の支えのもとで多くの論文が発表されていくなか、

次第にそれまで知られていなかった放射性物質の危険性も明らかになっていきました。

研究所では、数名の研究員たちが原因不明の体調不良を訴え、

その後再生不良性貧血や白血病を患い死亡しています。

彼女自身も1932年、64歳になるころには体のあちこちに不調が見られるようになります。

そして1934年5月、気分が優れず研究所から早退した彼女はそのまま寝込むようになり、

療養に入ることになりました。

そして同年7月4日、彼女は長年の研究生活を共にしたフランスの地で息を引きとります。

血液検査の結果は、再生不良性貧血でした。

現在では長年の放射能被曝が原因とされています。

この当時はまだその危険性が知られておらず、防護対策は採られていなかったのです。

葬儀は近親者や親しい友人のみで執り行われ、

マリーの遺体は夫ピエールの眠る墓地に並んで埋葬されました。

 

マリー・キュリー 伝説とエピソード

お腹が空き過ぎて気絶

貧しくぎりぎりな生活を送りながら大学に通っていたパリでの学生時代。

ろくに食べることができなかったマリーは、空腹のあまり倒れてしまうことがありました。

そのときは、医者だった姉の夫に面倒を見てもらいなんとか助かりました。

「女性」というだけで壁があった時代

ポーランド出身のマリーが困窮のなかわざわざパリへ移住したのは、

大学で更なる学びの機会を得たい彼女にとって「女性」という性別が壁になっていたからでした。

ロシア帝国の支配下にあった当時のポーランドでは、

女性の社会進出はおろか大学へ通うことすらできず、

研究を行うには、女性の在籍が認められていたパリ大学へ行くしかなかったのです。

さらに彼女には、ノーベル賞を受賞する際にも性別の壁が立ちはだかりました。

実は受賞委員会のメンバーは、彼女が女性だというだけで賞を贈ることに抵抗を感じ、

何かと理由をつけては、受賞を阻止しようとしていたのです。

 

きょうのまとめ

今回は放射性物質研究の第一人者、

マリー・キュリーについてその功績や生涯をご紹介していきました。

最後に、マリー・キュリーとはどんな人物だったのか、簡単にまとめると

① ポーランド出身の科学者で、放射性物質の研究を行いパリ大学の教授を務めた。

② 夫ピエール・キュリーと共に「ポロニウム」「ラジウム」を発見し、ノーベル賞を2度受賞した。

③ 放射性物質を医療に活用するための研究も行い、第一次大戦でレントゲン技術を提供したが、その危険性について気づくことはなく、晩年は多くの研究員と同様放射能被曝により死去した。

長年、その危険性を知ることなく放射能と共にあったマリー・キュリー。

彼女の遺した論文や遺品の多くは、未だに取り扱いが危険なほどの

放射線量を含んでいるといいます。

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